6/24/2014

ドバイへ。


マルタからの帰り、オーバーストップをかけてドバイに立ち寄った。 1泊ではドバイという国を知ることは到底無理であるが、目次を読み終えることはできたと思う。そして、また訪れたいと思った。今度はゆっくりと。

久々の世界である。初めてカタールやバーレーンを訪れた時もあまりに自分の知らない世界に胸ときめくものがあった。 
そして久々に胸がときめく。モスクからの生声に懐かしさと嬉しさを感じる。衣装にも目が 奪われる。 何もかもが楽しい。見るもの全てが楽しいのである。
                               向こう岸にいくために庶民の足である船に乗った。

日本円でいくらだったか覚えてないが30円位だったと思う。とにかく安かった。けれども船の下から煙がモクモクしていた。相棒は泳げない。 この船が沈没しなくてよかったと安堵する。  きっと日本だったらすぐに船は止まり点検となるだろう。 けれども、そんなことになるはずもなく、反対側に到着したのである。

映画『未来の食卓』予告編



バルジャック村をいつか訪れたいと思っている。
「オーガニック=自然のまま」
そう笑顔で答える子供の笑顔が印象的である。




映画『セヴァンの地球のなおし方』予告編




このような映画がTVでも放映されたらいいのにといつも思う。
もっと沢山の人の目に触れたらいいのにと思う。
国民の生活を守る政治家の目にも、支持する国民の目にも触れたら、
もっと世界は良くなると思うのだ。

12歳で環境に関心もっていたかはさだかではない。
そもそも、12歳で私が考えていたことを思い出すことはできない。
ごみの分別の意識も、燃えるか、燃えないか程度のレベルであったと思う。

彼女の声を聞いた環境サミットの大人たちがその後どのような環境活動を
行っているのかは興味深い。

身体を壊して以来、以前より更に食に関心をもつようになった。
ある宅配Serviceを利用するようになったのもその頃からである。
丁寧に育てられた野菜や大事に育てられた鳥や豚や牛のお肉が美味しいと
再認識した。 手間ひまかけた素材は身体にしっくりとくる。

私の市は幸か不幸か、ゴミをだすのに有料のゴミ袋が必要である。
これが結構高いのである。となると、必然的にゴミの分別や減量に意識がむく。
そして気づいた。
ゴミの大半がプラスチックであることを。

やはり、小さい頃ラッパの音がするとボールをもってお豆腐を買っていたような
そんな生活が地球に優しかったのかもしれないと思うのだ。

自分のために。そして自分にできること。
それは、自分を大事にすること。
そして、自分にできる小さなことを日々行っていくこと。

ごみをださない工夫。
♻️できるものを分別すること。

めんどくさいと言わず、
もったいないと言おう。

6/20/2014

信頼と信用と友人と、そして出逢い。




世の中のいろんな事が信用で成立する。そして、信頼へと変わる。独りで生きていく術を知らない私は、沢山の物や人に依存して生きている。自分なりの物差しや感じたことで信頼を確立していく。そしてそれはやがて信用に移行していく。信頼している友人は私の世界を広げてくれる大事な人達である。 世の中のいろんなことが信用できない。そして自分で感じたことも時々揺らいでくる。けれども信頼している友人の話は信用している。 その友人から紹介された人も私の中では大事な人となる。  紹介されたその人は、一目逢った時から素敵なものを感じた。 彼女は私の鍼灸の先生であり大事な友人となった。 そして、彼女が自宅からほど近い所で治療をしてくれる現在の鍼灸の先生を紹介してくれた。自転車で30分、行きは下りであるが帰りは上り。少々きついが、国立天文台の前を通るとなんだか嬉しい気分となるので、これからも自転車で行きたいなと思っている。 星に詳しいわけではないが、なぜか「国立天文台」という言葉の響きが好きである。 そして、近くの「天文台下交番」が好きである。 なんとなく、心浮き立つものがある。 そこを過ぎると、橋があり川が流れている。 その日は運良く夕陽をみることができた。美しい夕陽をみるとイスタンブールを旅した時のことを思い出す。 そして、ほど近い所にこういう情景があることに安堵する。   鍼灸の先生に丁寧に治療をしてもらっている時間、私は私の身体を大事にしている気がする。 それは、言うなれば大事な包丁を包丁研ぎで研いでいる時のような感覚である。 そして、先生の治療を受けた後は、私に私が有難うと言っているような気がするのだ。 「大事に生きてね、これからも。」そんな感じで。  大事に生きる事は全てに繋がっているのだ。 食にも、場所にも、睡眠にも、そして信頼している人達にも。   いつもいつも、ありがとう。そうどこかにつぶやきながら日々を丁寧に生きていきたいと、そう思いながら仕事に行こうと思う。
※最近、ピクルスや漬け物作りが好きである。そろそろぬか漬けも、、と思っている    のだが。  先生から頂いた美味しいトマトが今日の主役。

6/14/2014

映画「幸せの経済学」予告編




難しい経済のことはわからない。
けれども、生きていく上での必須科目なのかもしれない。

全てが知れたらいいなと、時々思う。
自分の家計簿のようにお金の流れが透明であればいいなと、思う。

食物も電気もガスも水道も、どんな人が頑張って私の元に届けて
くれているのか知れたらいいなと思う。

大事な人達からの贈り物は大事にできるのに、毎日欠かさないもの
が誰からの送りものなのかはほとんど知らない。そして、大事に
できていないなと、時々思う。

食物だけでも知りたいと、生産者がわかるものを購入し、輸入品は
なるべくフェアトレードの物を購入するように心がけている。
その人達を直接知る訳ではないが一歩近づけるような気がし、そして
大事に食そうと、大事に使おうと、そういう気持ちが芽生えてくる。

そのどれもが、平均的な値段より少々高めである。
決して裕福な家ではない。
けれども、お金は自分と自分の大事な人達のために使わないと
いけないと、そう思うからこれからも自分なりの経済学で生きて
いきたいと、思う。


ポリアンナを目指し、スプーンおばさんを思い、ミィをまねる。




結局のところ全ては考えようであると気づいたのはつい最近のことである。
ポリアンナのようにどんなことからも小さな幸せをみつけ、
スプーンおばさんの幸せと不幸せをかき混ぜるスプーンを持ち、
楽しい事だけを考えるみぃをまねる。
それが生きる術として今私が一番必要としていることなんだと思ったのだ。

人生が自分の思う方向に進んでいかないことのほうが多いと、
他人を羨み、自己を否定し、何が足りないのか模索したこともある。
けれども、それは違うのだと気づいたのだ。
人生が自分の思う方向に進んでいかないのではなく、
人生が自分の思う方向に進んでいかないと思い込んでいるだけであり、
それは錯覚であり、私の人生は間違いなく思うように進んでいるのである。

物事をひとつの側面でしか捉えることができていなかったことが、
私を思い込みと錯覚の世界に浸らせてしまったのだろう。

体調を崩し、一ヶ月もの間のんびりとした時間を過ごした。
日々、自問自答していたが納得できる答えを導くことはできなかったが、
答えは自分と共存していたのである。

私は今後を生きていく上での準備が必要であったのだ。
そのためには時間が必要であり、その時間を作るために、
今回の事があったのだ。
それは今必要であり、今でなくてはならなかったのだ。

この一ヶ月で何年分もの出会いがあった。
それは人だけではなく、美味しい野菜であったりお豆であったり、
興味深い本であったり、環境問題であったり、政治であったり、
世界の情勢であったり、そして沢山の優しさであったり。

自分との折り合いを、こうやって自分の時間の中で自然とでてきた思いでつけることができた。それはこれからの時間を過ごす上での楽しみをみつけるために何とも重要な事であったようだ。

優しく生きていきたいと思い、願いながらも、私はちっとも優しくなかったのだ。
いろいろなことに感謝をして生きていくことが大事でありそれがこれからの自分に何かを与えてくれるのだと。

映画『パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)』予告編





ポーランドを訪れた時、ビルケナウを歩いた時の感じたあの何とも言えない人間の
怖さを忘れる事はできない。あそこで犠牲になった沢山のユダヤ人は今のこの現状
をみて何を感じるのだろうか。

彼が言うように、
「こんなこと、誰がはじめたんだ?」

どうしてここまで歯車はずれることなく回ってしまっているのだろうか。
その回転は日々速まっている。そして止まらない。

ユダヤの諺から学ぶべきものがある。
「他人の過ちから学べ。全ての過ちを体験する時間はないのだから。」

歯車に狂いが生じ、人々が命の不安を祖国を追われる不安もなく生活できる日々が
くることを切に願う。

自分にできることをみつけられない。だから私は真実を知っていきたいと、
そう思うのだ。