5/09/2014

自分との折り合いのつけかた。


 自分に悲しい現実が突きつけられたとき。それを回避することは難しい。その現実から目を背けようとすればするほど私の目の前を旋回する。ヘリコプターの着陸の前のように。だから、私はその現実と向き合いそして受容していく必要がある。その現実を自分にとって必要なものであったと認識させる必要がある。そうやって、ひとつひとつのことと折り合いをつけていかなくては前に進んでいけない。それが人が言う、成長なのだろう。大人になるとは世の中に知らない現実が沢山存在するということを知ることなのかも知れないとよく思う。若い頃は、現実とは自分が知る中だけのもので全てであると思っていた。それが違うと知ることは、新しい世界を知る喜びも与えてくれた。希望も与えてくれた。けれどもその反面、負の感情も与えられた。それは時として私を大きく苦しめる現実なのだ。

 ある40代の患者さんの大手術を終えるのを待った。難しい手術になるとは主治医から聞いていた。そしてスタッフ皆が覚悟をしていた。けれども現実はその覚悟を遥かに超えるものであった。 夜中に不安そうな顔でNsステーションを訪れる妻。彼女のいつ終わるのでしょうか?の不安を取り除けるような答えは持ち合わせてなかった。私も同じ質問を執刀医である主治医に投げかけたかった。その患者さんが戻ってきたのは明け方近くであった。彼は手術中、一時は生死をさまよっていた。無事に帰ってきたが油断ならない状況であった。

 彼の妻と、彼を待つ間ほんの少しだけ話をした。彼女は深く後悔をしていた。今回の手術をすすめたのは自分であり彼はとても嫌がっていたのだと。確かに選択肢は化学療法後の手術しか残っていなかった。彼女は純粋に彼との時間を守りたかったのだ。でも彼に手術をすすめた時にこう言われたそうだ。「おまえは俺の気持ちなんてひとつもわからないんだ。これは癌になった人にしかわからないんだ。」

 人間には想像力というものがある。だから、悲しみに対して自分の物差しなりの悲しみを想像することはできる。けれども結局のところ全ては想像である。世界の様々な地帯で起きている紛争やテロ、自然災害、殺人、その全ては当事者ではない自分には知ることや想像の上での悲しみを持つことはできても、本当の悲しみでない。何故なら当事者ではないから。人は自分がその悲しみの当事者になって初めてその悲しみの本当の意味を知る。

 私の前に突きつけられた悲しみは、私の大事な友人達のところにもやってきた。それは私が経験する前のこと。その時の友人達の悲しみを聞きその姿をみて、私は本当に悲しかった。ものすごく悲しかったのだ。私の大事な友人に何故こんなにも悲しい現実が突きつけられなくてはいけないのだろうかと。 けれども、今思えばきちんとその悲しみを理解できていなかった。自分の目の前に同じ現実がやってきて初めて知ったのだ。 こんなにも辛く悲しい出来事だったのかと。

 悲しみは人によって癒される。でも最終的には自分で自分と折り合いをつけるしかないのだ。どんなに自分の現実を嘆いても起きてしまった事実を消し去ることはできない。前を向くのも後ろを向くのも自分次第なのだ。その出来事を今後に生かすも殺すも自分次第なのだ。そう、全ては自分に委ねられているのだ。 自分の人生は自分で歩くしかない。他人に代わりをお願いすることはできない。けれども、人は先導者になってくれることもある。隣を歩いてくれることもある。後ろから見守ってくれることもある。それは普段は意識しないことである。 悲しみがやってきた時、初めて周囲の人を意識する。

 全ての苦しみや悲しみを経験することはできない。けれども、想像力をいつでもポケットに忍ばせておきたい。そして、世界は沢山の喜びと希望で満ちあふれていると、でも悲しみや苦しみもあるんだと時々は思い出し、そして大事な人達の前を隣を後ろを影のように歩き、時々いてくれて有難うと、、、、そんな風に毎日を生きていくことが自分との折り合いのつけかたなのだ。 少なくとも私にとっては。

 台所と洗面所に緑を置いた。生きていること、成長することを日々小さく思い出したいから。

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