3/17/2014

個人を集団はどうしてそこまで追いつめていくのか。

     世の中には膨大の情報が溢れている。その中で沢山のことが真実とかけ離れたところに存在するのではないかと思うことがある。パソコンや携帯電話が身近になかった時代はそんなに昔のことではない。それなのに、自分の生活の中で家の鍵やお金と並ぶ必需品となっていることを、時々恐怖に思うことがる。  最近世間を賑わしているニュースをみて悲しくなることがある。 個人を集団はどうしてそこまで追いつめていくのか。 その疑問が頭を過る。そして立ち止まる。そして悲しくなる。 その人の裏にある真実などわからないのに推測だけで話を進めていき、そしてそれは独り歩きをしていきやがて全てが真実であるかのように扱われる。そして、その不確かなことに非難を投げつける。 それが不確かであるかなんてもうどうでもいいのだろう。非難している人はきっとその人のこともその人の背景も、そもそもその問題となっていることの核の部分とされることも、なにひとつ理解していないのだろう。だからこそ、気軽に非難をすることができるだろう。  その人の昔のエピソードまで持ち出す。そして非難する。 人は生きて行く中で成長する。失敗をしたことがない人間なんているのだろうか。他人に迷惑をかけないで生きてきた人間なんているのだろうか。いろんな経験をして反省をして人は成長をしていく。過去の間違いは今のその人の形成に重要なものであったのだ。皆、そう思い自己の失敗を嘆きつつも前進していく。 成長過程で起きたことを非難するなんて、安易にするものではないのだ。    個人を集団で追い込む怖さは人の心の奥深くに沈んでいる黒い人とイコールなのだろう。奥深くに沈んでいるにはそれなりの理由があるのだ。 気軽にその奥深くに沈んでいるくろいひとを起こしてはいけない。   友人の子供達が仲良く足を組み笑顔でいられ続ける世の中であってほしいと願う。 赤子の笑顔をみれば、皆がくろいひとを沈めたままにしておけるのではないかと思うのだが。 難しいのだろうか。                                                         

3/16/2014

マルタでの最後の時間

旅の初めは少しの不安と大きな期待で溢れている。 飛行機から降りて先ず感じるのは空港の雰囲気である。  何事も最初の印象が大事である。 最初に感じたものに、大きく裏切られたことはほとんどない。 けれども全くないわけではない。 だから、マルタの空港のアットホームな感じに嬉しさと同時に、気を張る自分もいた。

 初めて訪れたマルタ。 ほんの少しの時間ではあったが、マルタという国をのぞくことができた。満喫した結果、残ったユーロはこれだけである。 空港は物価がとても高い。 残ったユーロで購入できたのは珈琲一杯である。 
  帰りの空港は、初めて降りた数日前と同じ気分であった。マルタという国を十分満喫した。歴史も勉強した。肌で感じる何かもあった。 満腹との戦いを終え、いい気分だけを手みやげに。 そしていつも国を出る時のひとつの区切りとしていること、家族にエアメールを書き、帰りの飛行機を待つ。  その時間はどこか寂しく、どこか満足、なんだかんだ言いつつ、思いつつ、やっぱり旅が好きである。  

3/08/2014

マルタでみた遺跡。


遺跡をみに行く度に思う。  ここはなんだったのだろうか?どんな人がいたのだろうか?どんな生活をしていたのだろうか?                                                          
 曖昧なことがどんどんなくなる世の中。 いろんなことが不明瞭であるのはよくないとされる世の中。  自分自身も、理由がないことに、いろんなことがはっきりしていないことに不安を抱くことも多い。 でも、時々遺跡をみて思う。  ほとんどのことは理由もないしわからない。  世の中は曖昧で不明瞭で、だから成立しているのだと。

マルタでの食事の量の多さって。



マルタの伝統料理の美味しいレストランであるとのこと。『TA'KRIS』 少し路地を入って行くとある。  マルタでの料理の量が随分と多いということは聞いていたが、本当に多い。前菜がすでに多すぎて、ふたりで食べても満腹になる。 これにバスケット一杯のパンもくるのだ。 この前菜のお皿、本当に大きい。 勿論メインは前菜と同じお皿の大きさであるが、盛り方がすごいのである。

ここまで量が多いと、美味しいものを美味しいと感じることが薄れてしまう。 メインに行く前に美味しいという感覚はストップ。
周りの人達はどうしてひとり一皿食べるんだろうか。ふたりでも食べるのは大変である。残すのが大嫌いな相棒もさすがに、「降参」した。



お酒のつまみにと頼んだチーズの量の多さといったらない。 6人前位はあった。 食べきれず、ナプキンにくるみ持ち帰ったけれど、それでも食べきれない。  ケーキの大きさまでもがこのサイズ。隣の珈琲はエスプレッソではなくアメリカーノである。 コージコーナーのケーキより大きいなんて。 チーズケーキパフェの上に大きなチーズケーキがのっていた時以来の衝撃である。
このパスタとても美味しかったけど、これまた2人前位の量である。 ふたりで食べても満腹。 1人前の値段で2人前がでてくるなんて有り難いけれど、最近目で満腹になることが多い私にとっては、この量はいささか厳しいものがある。  やっと普通の量のパスタに会えた。わけではなく、ここにはスモールサイズがあるのだ。 でもセットのサラダにはなぜかポテトが山盛りであるのだ。   マルタに住んだらこりゃぁ、太るか、、、やせるか。きっとすぐにこの量に慣れて太るんだろうなぁ。

マルタでの日々の続きのつづき。



 なんでヨーロッパに赤は似合うのか。サントリーニ島の建物はどれもこれも白であった。 それがとてもしっくりときた。 マルタの建物はどれもこれもこの色である。そこに赤が加わると違和感になると思いきや、これまたしっくりとくるのである。最近日本でほとんど見なくなった電話ボックス。この電話が使えるかはわからないが、なんだかドラえもんのもしもボックスを連想させ、どこか懐かしくなる。


 旅であるからひとつひとつの景色に楽しさを感じるのか。旅という今日が束縛の何一つない時間であるから楽しさを感じるのか。 理由はわからないし必要ないのかもしれないけど、考えることが必要な私はいつも考えてしまう。  なぜこの木はこの形なのか?、、、と。
 このボタン、かわいいのである。 なんとなく、初代の仮面ライダーを思い出す。否否、ドラえもんかもしれない。 とにかくかわいいのである。  このボタン、毎日お世話になったバスのボタンである。 毎日乗っていたが、結局一度も押すことができなかった。 はや押しクイズが好きな人達は、バスのボタンを一番に押すことに喜びを感じると聞いたことがある。 私はやっぱりとろいのかもしれない。さて押そうと思った瞬間には誰かがもう押している。

ただの靴下。ただのバケツ。それを、写真におさめたくなる程の気持ちにさせるのが、異国であり旅であるのだ。  私のカメラには誰かが干したであろう、洗濯物の写真が数多くあるのだ。 


異国の日常は私にとっては非日常。 さて、洗濯物を干さなくては。 それは特に楽しいものではない。 勿論、写真に納めようなんてひとつも思わない。

マルタでの日々 続き


旅先で必ず足を運ぶのは「市場」である。
市場は市民の台所と言われるだけあり、日常のあるとあらゆるものが並んでいる。見ているだけで楽しくなる。 最近の旅は短いため料理をすることはほとんどないが、昔は市場に行き、お魚や野菜を購入し共同の台所で料理をし食事をしたものである。kg単位で購入しなくてはいけないものも多く(語学力が高ければ、ほんの少しでも購入できるかもしれないが。)、沢山購入 

 してしまう。安いという理由もあって尚のこと。   だから、多めに作ってしまうことも多く、台所で他の料理をしている人と料理を交換したりして、そういう交流が楽しかった。時々思い出すのは、ブエノスアイレスの宿で食事の時間になるとどこからともなく現れる人。その人は食事をしているとどこからともなく現れる。それが偶然だったのか、否か、それはわからないが。


 いつも美味しそうに食べてくれたその人は今どこにいるのだろうか、そんなことを時々思う。  お金のない旅に市場は強い味方であり、旅先で先ず最初に行ってみるのが市場であり、「市場」はその国の入り口であると、市場を歩きながらそんなことを思う。 そして、なぜか必ず目に留まるものが「トマト」である。 市場にトマトが似合うのかヨーロッパにトマトが似合うのか、考えながら。 

気が滅入った時

 気が滅入った時にそこに立ち止まって右往左往していると、どんどん沈んでいく。かといってもがくと濁り何も見えなくなるだけである。だからじっとしているのが一番であると、沢山の経験の中で学んだ。 けれども、ただただじっとしているというのは難しい。じっとしていることで、ネガティブな自分がどんどん出現する。 そして、息をするのがしんどくなるのだ。普段意識的に呼吸をすることはない。 しかし、いざゆっくりと呼吸をしなくてはと意識すると、途端に呼吸をすることが難しくなるのだ。 だから、気が滅入った時は小さなお花を購入し飾る。そして、いつもの料理に一手間加えて、ほんの少し美味しくする。 

 唐揚げは2度揚げをしてぱりっと。 いつもの付け合わせはやめて、バーミキュラでことことと温野菜。閉店セールをしていたお店でみつけた、富士山の箸置き。 私はなぜか箸置きが好きである。そしてみぃを見つけた。昔、友人から送られた手紙にこう書かれていた。 「みぃは嬉しいことしかしらないんだよ。」 その言葉を思い出し、箸置きとともにはしゃぐみぃの布巾も購入した。
そんな過程を過ぎていくと、気が滅入っていた自分を自分で忘れてしまう。ほんの少しでもそんな時間を忘れてしまうことができれば、それでいいように思うのだ。その積み重ねで前に進む。 非日常で無理に忘れるより、いつもの日常の中で気が滅入っている自分と無理することなく呼吸を合わせていくことが大事なのだと、ほんの少し大人になった今、思ったりするのだ。  つぼみが少しづつ膨らむのを楽しめる毎日を送れたら、もうそれでいいのかも知れない。

3/04/2014

この仕事を選択した自分を受け止められなくなる時。

呼吸器疾患で入院していた患者さん。
とても素敵な方でした。
毎日仕事のことを心配し早く退院したいとこぼしていました。
退院前に外出を繰り返し仕事に通う予定でした。
筋力が落ちたからと、ひとり階段昇降をしていました。
階段は辛いねぇ。
シャワーは体力使うねぇ。
息切れがひどいよ。
そんなことを言いながらも、笑顔な方でした。
まさかこんなに早く彼の最期がくるとは思いませんでした。
前日、前々日担当していた私は前日の彼が気になって仕方なく。
何か胸騒ぎがしていました。
仕事の最後に挨拶にいった時もどこか心配で仕方なく。
よくなったのにねぇ、仕事に行けるのを楽しみにしていたのに。
そんな弱気な彼に、何を言うべきかわからなくなり。
今日はこんなに天気が悪いから調子が悪くなるのも仕方ないよ。
明日は今日よりよくなるよ。
もうその言葉は私自身に言い聞かせた言葉でありました。

同僚から連絡がきました。
夕方急変したと。
そして逝ってしまったと。

こういう悲しい瞬間はどんなにこの仕事をしていても慣れることはなく。
あの笑顔が過っては悲しくなり。
そして、この仕事を選択した自分を受け止められなくなる時でもあるのです。