1/15/2012

最後ではなく最期について。






人は自分の最期がいつくるのか知らない。時々、自分の最期はいつなのかと漠然と思うときがくる。それは仕事からくるものなんだろう。いつも思う。病気でない自分のほうが奇跡的であると。病とはそれは驚くほど突然やってくる。


ある患者は自分が眠っている間に薬を使い、更に深い眠りにつかせてほしいと言う。家族は本人の希望を叶えてほしいと言う。けれども、患者はまだ治療による延命の可能性もある。医師から治療の説明がある。


けれども患者は言う。延命をすることに何の意味があるのか。今までの生活ができないのであれば生きる意味はない。


確かに、声を失い辛い副作用のある治療を続けながら生きることは辛い。更に辛くなる前に、最期をむかえたいという気持ちを安易にどちらがいいのかと他者が判断することはできない。


最期をどのような形でむかえたいかは、個々により大きく異なる。

余命宣告をされた時、人はどのような最期を描くのであろうか。


近しい人が自殺をした時、なぜ彼が自ら命を絶ったのかわからなかった。その人は自分の最期を自分で決めた。そこに至るまでの経過はわからない。他人にはわからない苦しみもある。だから、その最期に対して、私は何も言うことはできない。ただ思うのは、人の命が消える時、周囲の人も辛く悲しいのだということ。


数年前、親戚のおじさまがお風呂場で突然死んでしまった。本人も周囲の人も誰もおじさまの最期など予期していなかった。

宣告された最期。
自ら選んだ最期。
突然の最期。


私にもいつかくる「最期」。

結局私には、今までの生活ができないのに生きる意味などあるのか?


の問いに答えることはできなかった。


人にはその人だけが知る、生まれてから今までに積み上げてきた大事なものがあるのだ。