10/29/2010

あとがき・・・として。


帰国した。そして、また旅立ちたい衝動にかられている。それを必死に抑えている。
日本にいることに違和感を持つが、旅が夢であったのかもしれないと思ったりもする。遠い昔に旅したような気もする。どちらにしても、昨日まで異国にいたとは信じがたいのである。

帰国するといつも思うことがある。「今後どうして生きていこうか。」
26歳の時から本格的な旅をはじめた。それから7年以上の月日が流れている。一度はじめてしまった旅を終わりにする術も理由もみあたらない。それどころか、自分の身を365日のどこかで旅という非現実に置かないと深呼吸ができなくなる。かといって、非現実は現実がなければ成り立たない。その公式が崩れることはないので、私は現実を歩いていかなくてはならないのである。

旅は楽しい。それは紛れもない事実である。でも最近思うのは、「旅のなかだるみ」にきているということである。たかが45カ国位の国のほんの一部をみただけでその国を知っているとは言えない。小さなのぞき穴からほんのちょっとだけ見ただけなのである。けれども、旅の基本に大きな違いはない。そこに出逢いやアクシデントというオプションがつくのである。そのオプションがあるかないかがその旅の楽しさを変える。

旅の友人から電話がきた。彼女と旅を供にしたことはない。でもきっと同じような旅の仕方をしているのだろうし、旅に求めているものも類似している。彼女との口癖はふたりの距離が異性だったらね・・・こんな気の合う相棒いないのに。・・・である。彼女は最近ベトナム経由でフランス、オーストリア、ドイツを旅してきた。そして嘆きはじめた。

「最近ね、YHも安宿も昔と違ってねあまり交流がないの。せっかく旅にきているのにずっとPCとむかい合ってるんだよ。なんだか寂しい。」

確かにそう言われてみるとそうである。みんなPCに向かっているし、PC待ちをしている人も多い。旅のノートを読んだり、書いたり、情報を詳細に獲得するためにロビーやキッチンで日本人がこないかと待ったりしていたこともある。宿の人や電車のクシェットで一緒になった人から美味しい食堂や行ったほうがいい場所を教えてもらったりもした。とにかく、生活の全てで誰かに助けを求め、そして助けられていた。そして、それが私の一番の「出逢いの連鎖」となっていったのだ。

旅の途中、大きなバックパックを背負い仲良く手を繋ぎブルーモスクのほうにむかって行くカップルに遭遇した。星の王子様の著者がいう言葉、そして私の理想の関係、
「愛し合うということは、お互いの顔を見つめることではなく、同じ方向を一緒に見つめること。」
彼らにはそれが存在していたのである。そのふたりに心地よい嫉妬をしている自分がいた。

私は旅をして強くなりたいのかもしれないし、ただ、美味しいものを沢山食べたいのかもしれないし、友達を作りたいのかもしれないし、誰かと話したいのかもしれない。「中だるみ」はしているかもしれないけれど旅が好きという気持ちは消失していない。だからそれでいいのかもしれない。

尊敬する沢木耕太郎が何年か前に出版した本に書いてあった一文を思い出した。

「かつて、私は、旅をすることは何かを得ると同時に何かを失うことでもあると言ったことがある。しかし、齢をとってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思えるのだ。もちろん、30代には30代を適齢期とする旅があり。50代には50代を適齢期とする旅があるはずだ。以前、日本の6.70代の高齢の方たちがベトナムを団体で旅行しているところを見かけたことがある。これはとても楽しそうな風景であった。私も、もう少し齢をとったらああいう旅行をするのもいいなぁと思ったくらいだった。しかし、20代を適齢期とする旅は、やはり20代でしかできないのだ。50代になって20代の旅をしようとしてもできない。残念ながらできなくなっている。だからこそ、その年代にふさわしい旅はその年代のときにしておいた方がいいと思うのだ。」

最初に異国の地に降りたとき、最初にひとりで旅をした時、最初にモスクを見たとき、最初に教会を見たとき、最初にバザールやマルシェやマーケットやバルに行った時、そう、最初の感動や興奮はもう味わうことはできない。それが、私の「中だるみ」の原因であり、「今後どうしていこうか。」と思わせるのだろう。

でも私はそれでも旅にでるのであろう。今は30代の旅を模索しているのだ・・・きっと。

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