9/07/2010

大丈夫、一生かけて帳尻が合えばいい。


田口ランディと玄田有史先生の対話のテーマは「大丈夫、一生かけて帳尻が合えばいい。」であった。私もそう思って生きている。というかそう思い込ませて生きている。それが唯一の自分自身を甘やかすことのできる言葉である。


旅を何度か供にした友人に、なんとなく自分を見失っている感の否めない手紙を送ったらこんな返信がきた。


「今晩は。今年、本厄と思っていたら、それだけではなくて、例の大殺界だったらしいの。今更知って、良かったんだか、悪かったんだか。一時、精神的に、それこそハンガリーの駅の超スピードのエスカレーターを急降下。降りた先に待ち構えているのは、意地の悪い検察官。 今年は猛暑の疲れが今頃どっと出てしまって。


生きている意味を一生懸命見つけようと、必死だった。それが、20歳代の生き方。でも、結局、生きている意味なんてないし、考えてはいけないのかも。最近、道間違えると、イラッとしてしまう。ナビから外れただけでも。貴方と旅しているときは、全然、そんなことなかったのに。 日が暮れても、迷ったよね。迷うことが当たり前で。いつも、誰かに助けられていたし。


障害の人とも接しているからかな??社会のメジャーって恐ろしいと思ってしまう。人を傷つける凶器も備わっていると。 」


そう、旅の途中は孤独なことが当たり前で、だからこそ人との優しさを知っていたし助けられることの喜びを肌で常に感じていた。生きるということは動くということで、とにかく歩いていかなくてはいけなかったのだ。異国の地で立ち止まっていることなど許されない。とにかく生きなくてはいけなかった。どんなときだって、空腹にも睡魔にも打ち勝つことはできなかった。それが生きているということであったように思う。


対話の中で「無意味が怖い」という言葉がでてくる。確かにそうである。全てのことに意味がほしくて仕方ない。意味がないかもしれないと思った瞬間に意欲は削がれる。意味のあることだけをすることで自分という人間の成長があると考えている。私もきっとその傾向はあるのだろう。


でも旅なんて意味などない。後づけでいくらでも意味をつけることは容易である。でも、はじめたときに意味など考えていないのである。行きたいから、いったのである。


世間は旅人に決して優しいとはいえない。それは自由イコール責任感が乏しいとか連帯感が乏しいとかそんな感じがするからだろう。でも表面的には「やりたいことをやっている貴方は羨ましい。」と言う。


メディアはこぞって取り上げている。おひとり様であったり、シェアハウスであったり、一人旅を。けれども、それを取り上げれば取り上げるほど、自分がやりたいから、住みたいからという人たちは置いてきぼりにされていく。


対話の中に「ショーシャンクの空に」のことが書かれている。私の大好きな映画である。(随分と観ていないが。)


無実の罪で収監されていたレッドが「希望を持つのは危険だ」という場面があって印象的なんです。希望をもたないといえkないとよくいうけれど、ときとして希望を捨てることを生きる知恵にすることだってある。希望をもつことが余生をよくすることだというけれど。希望を持たない選択肢も認めないと苦しい。


・・・・と玄田先生は言う。


頭の声ばかり聞かないで、身体の声を聞いていこうとそう思った。


「大丈夫、一生かけて帳尻が合えばいい。」





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