7/12/2009

選挙。

私の地区の投票場所は、小学校。久々に入る小学校の体育館はなんだか小さく感じた。私の通っていた体育館もきっとこんな感じの大きさ。小学生っていろんな意味で小さくて、毎日学校と家の往復で、私の喜怒哀楽は全てそのふたつの空間に凝縮されていた。あの時は今がくるなんて思いもしなくて、今よりももっと必死で生きていたはずなのに、なんで私は生きているの?なんてそんな馬鹿らしい思いなど過ぎることもなかった。全ての事実に意味があるなんてことは、知らなかったから。でも、今も全てのことに意味があるとは思えていない。体のどこかでその思いをはねつけているように思う。

正職員で勤務しているときは毎月1回、話し合いがあった。参加できなければ、委任状を書いて提出していた。選挙に向かいながらその意味をふっと思った。選挙にいかないということは、全てを他の人に託しているのである。単純に考えれば、後からいろんなことを言う権利はない。国に置き換えてもそうなんだろう。やっぱり、税金を納める義務を果たさなくてはいけないように、投票にもいかなくてはいけないのだろう。

人は責任を誰かに転嫁させたい生き物のように思う。それが善であるか悪であるかはわからないけれど、マイナスなことばかり言ってないで、人を非難してばかりいないで、どうやったら良くなるかを皆で考えるべきなのではないのだろうか。どの党でも構わない。そんなことに拘っていてはいけないように思う。

仕事でいつも言い聞かしていること。人間関係でいつも言い聞かしていること。

「人を変えようと努力するより、自分を変えるほうがいい。」

それは、信念を曲げるとかそういうことではない。もっともっと、奥深くそして簡単なことなのであるように思う。

2 件のコメント:

co1 さんのコメント...

お久しぶりです。モモさん。
いつも楽しく読ませてもらってます。

最近、自分が持つ「責任」について考えています。

特に最近考えるのが、『自分の責任の範囲をどこまでと定義することができるか』が非常に重要だ、ということです。

責任はモモさんが仰るように、意識しなければ他人に転嫁したくなるものだと思います。僕も特に意識をしなければ、責任の回避や転嫁の考えが頭をよぎりることがよくあります。

しかし自分の責任を過度に小さく定義することは、結果的に自分の人生の幅を狭めてしまうことに繋がるのではないかと、最近そんなことを思い始めました。

なぜなら責任なき所に、魂のこもった行動は生まれないからです。魂のこもった行動とは非常に抽象的な表現ですが、要は自分の意思が込められた行動です。

人生は選択の連続ですので、その一つ一つの選択に自分の意思がどれだけ込められているかで、価値が変わってくるのではないかと思っています。

言い換えると、責任を自覚する範囲が大きければ大きい程、意思ある行動の割合が増え、人生に厚みが増していくのではないかということです。

長くなりました(笑)。またこの辺のことは、もう少し整理でき次第、自分のブログにでも書きたいと思います。ではではー。

amelie さんのコメント...

co1君、お久しぶり。私も、ブログを拝見していますよ。読んでは、私も頑張らなくてはと気を引き締める契機にしています。

人生には、「選択」を迫られることが多々あります。小さなことから言えば、朝ごはんは何にするかから始まり、まっすぐ帰宅するかとか、一杯飲んでから帰宅するかとか、そんなことから、もう拾い上げたらきりがないくらいあります。

大したことのない選択であると思っていたら実は後々に繋がる重要なことであったということもないとは言えず・・・。

選択の周囲をウロウロしているのが、責任のような気がします。責任って一言でいっても個々に考え方や捉え方は違うのでしょうが、
自分の言動や行動には責任をもたなくてはいけないなと常日頃思っています。特に言動には責任をもたなくてはいけないと。言葉って独り歩きしやすいものですから。

私の周囲に、分かり易いほど、責任を転嫁して生きている人がいます。彼女は行き辛そうではありません、むしろ楽しそうに生きています。いつも、口癖はあの人がそう言ったから・・・なのです。その「あの人」にされた人も、聞いているほうも気分は良くないのですが、当の本人はすっきりした顔をしています。

彼女の人生の厚みを客観的に計ることは不可能ですが、私の感想としては薄い人だなぁと思っています。

ko1君の言うとおり、責任を自覚する範囲が大きければ大きいほど、人生に厚みが増すのでしょうね。

自分の人生は自分にしか生きられない・・・それってものすごい価値ですよね。それに気づくか気づかないか・・・それだけでも随分と今後の人生が変わるような気がするのですが。