7/26/2009

わかっていたけど。


ブラジルの風は、キューバの風は、そうサルサの風は私の肌に心地よい風をあててくれる。でも、この風は私の肌を冷やすだけ冷やして終わり。そうなることは、最初からわかっていたのに、自ら風にあたりにいってしまった自分が悪い。あらかじめ予想していたこのに飛び込む自分が悪い。

少しづつ変わる必要があるのかもしれないと思ったから。このままではいけないと思ったから。

でも、このままでいい。こういう空気で肌を冷やすのはやめようと思う。この空気・・・私には合わなかった。全く合わなかった。気づかない振りをここでもしていたけど、もう無理なのだ。潔く認めようと思う。何杯飲んでも、全く酔わないことが証明している。よっぽど体の方が正直である。

ばななの言うように、

「ただ、ばかみたいに単純に。」

それでいい。・・・・冷え切った体は明日仕事場で温めよう。  

7/22/2009

本当は。


虹を、夕日を、皆が立ち止まり眺めている。普段は誰も立ち止まることなどなく通り過ぎる駅。その駅で足を止めさせたのは、虹であり夕日であった。どの人の顔も表情豊かである。無論、怒っている人などひとりもいない。

本当は皆、こういうものを求めているのかもしれない。ただ、それに気づいていないだけ。本当は誰も、いそいでいないのかもしれない。ただ、周囲の空気に圧倒されているだけなのだ。本当はみんなが、人を求め、自然を求め、生きているのだろう。

そう、自然は・・・地球は、私たちを作り上げてくれた存在であるのだから。

夕日を見ると、あの人を思い出す。あの人を思い出すとまた思い出すことがある。記憶が連鎖する。そして、ちょっぴり寂しく、ちょっぴり温かい気持ちとなる。夕日は皆に、いろいろなものを呼び起こしてくれるのだろう。

7/21/2009

MEET


中学1年生で習得するmeetの意味は大抵の人が知っているのだろう。それは「会う」という意味。でもそれ以外にも意味はある。「満たす」。いつもこの意味がでてこない。私の中で「会う」と「満たす」がイコールされない。

久々にみた虹はイスタンブールを思い出す。あの雨上がりに目の前に突如できた大きな虹を。あの時の私と今の私は結局の所何も変わっていないのかもしれないし、変わりすぎてしまったのかもしれない。生きることに貪欲であるときとそうでないときの毎日が大きく違うように、自由を激しく求めているときとそうでないときの毎日が大きく違うように。私には何が何で、そしてどうしていったらいいのか混乱している。

「ないものねだり」が結局の所、一番しっくりと今の自分を表現する言葉のように思う。それは決して「隣の芝生は青くみえる」ではない。ないものねだりをしている自分をどこかで気づきながらもそんなはずはないと否定したい私は気づかないふりをする。いろんなことに気づかないふりをして、それに辛くなって混乱する。それが最近の私の常である。

最近気づいている。生きることが極端に苦手でちょっとしたことでぶれてしまう弱くて中途半端な私に「自由」を求めることは酷であると・・・。「自由」は強い人の専売特許。私の思う強い人、それは自分だけを生きている人。私は「不自由」の中で「自由」っていいなぁって呟くくらいが丁度いいのかもしれない。以前放映していた派遣の品格の主人公のように「それがなにか?」と言える強さを私は持っていないから。

7/16/2009

アイス。

アルゼンチン アイス屋



暑かったあの日。私は確かにこのお店でアイスを食べていた。今後のことなんてひとつも決まっていないのに、帰国後のことなんてどこかに放り投げ、アイスを食べている自分を楽しんだ。暑いから、そこに美味しいアイス屋さんがあるから、だから私は毎日アイスを食べた。美味しかった。その事実に満足であった。それで充分であった。

でも、アイスが美味しかったのも全てが楽しかったのも全ては現実を直視することをやめていたからなのかもしれない。現実はアイスのように甘くもなく、暑さで溶けてしまうこともない。私はアイスのように生きられない。だから、アイスを食べている自分にどこか優しさを持ちたかったのかもしれない。

7/14/2009

悩み。


鮮明に写すことができない。それは、今の私の心境を知ってのことなのか・・・。更新された保険証が送られてきた。新しい保険証の裏は臓器提供の意思カードとなっていた。

1・・・2・・・3・・・。医療従事者であったら悩むべきではないのかも知れない。でも悩んでしまう。結局結論はでず、何も書かずにお財布にしまった。

最近、肺癌で死んだ人のNEWSを見ながらあの人を思い出した。彼を思い出すのは久しぶりである。まだ私が新人だった頃、ある感染症から肝臓癌がみつかり入院してきた人がいた。彼は29歳、1ヵ月後に結婚を控えた人であった。余命は3ヶ月と言われていたが、3ヶ月も命は続かず入籍1週間で逝ってしまった。

あの当時の彼の年齢を超えたんだなぁって気づき、何か思うことがある。言葉では上手く説明できないけれど、思うことがある。

私が突如、命を落としたら、今私と供に生きている臓器や感覚器で誰かの命が助かるのかもしれないし、苦痛を緩和してあげることもできるかもしれないし、その周囲の人たちを笑顔にすることも可能かもしれない。

もし・・・という、仮定の話は苦手分野であるが、このカードの選択肢を繰り返し読んで頭を過ぎるのは、もし・・・しかない。

もう少し、ゆっくりと自分と対話をしてから決断を下そうとそう思った。それからでも遅くないと信じて。

7/12/2009

選挙。

私の地区の投票場所は、小学校。久々に入る小学校の体育館はなんだか小さく感じた。私の通っていた体育館もきっとこんな感じの大きさ。小学生っていろんな意味で小さくて、毎日学校と家の往復で、私の喜怒哀楽は全てそのふたつの空間に凝縮されていた。あの時は今がくるなんて思いもしなくて、今よりももっと必死で生きていたはずなのに、なんで私は生きているの?なんてそんな馬鹿らしい思いなど過ぎることもなかった。全ての事実に意味があるなんてことは、知らなかったから。でも、今も全てのことに意味があるとは思えていない。体のどこかでその思いをはねつけているように思う。

正職員で勤務しているときは毎月1回、話し合いがあった。参加できなければ、委任状を書いて提出していた。選挙に向かいながらその意味をふっと思った。選挙にいかないということは、全てを他の人に託しているのである。単純に考えれば、後からいろんなことを言う権利はない。国に置き換えてもそうなんだろう。やっぱり、税金を納める義務を果たさなくてはいけないように、投票にもいかなくてはいけないのだろう。

人は責任を誰かに転嫁させたい生き物のように思う。それが善であるか悪であるかはわからないけれど、マイナスなことばかり言ってないで、人を非難してばかりいないで、どうやったら良くなるかを皆で考えるべきなのではないのだろうか。どの党でも構わない。そんなことに拘っていてはいけないように思う。

仕事でいつも言い聞かしていること。人間関係でいつも言い聞かしていること。

「人を変えようと努力するより、自分を変えるほうがいい。」

それは、信念を曲げるとかそういうことではない。もっともっと、奥深くそして簡単なことなのであるように思う。

7/10/2009

あっけない・・・。

本格的に声がでなくなってきた。咳のしすぎで目覚めてからも体が気だるい。

こんな時は、映画でもみようと思い立ち近くのTSUTAYAで恋愛コメディをかりた。THE HOLIDAY・・・頭を休めるのにはとてもいい映画であった。無論、声がそれで治るわけではない。悪化の一歩をたどっているようだ。

最近、友人が携帯が故障して電話帳のメモリーがとんでしまったので連絡をくださいとブログに書いていたのを思い出し、友人にメールをした。なんと、その直後に私にも同じ事件が発生した。

なんとあっけないものか・・・最近メールを交わした友人達以外はアドレスも電話番号もわからなくなってしまった。なんともあっけないものである。

仕方ない、これも何か意味があってのことだろう。と携帯電話の画面を見ながらつぶやいた。それにしても、年賀状の習慣が私にはまだあってよかった・・・地道に手紙でも書こうかなぁ。

7/09/2009

自然。

久々に皆に会った。一ヶ月ぶりの私を温かく迎えいれてくれたこの場所がなんだかんだ好きである。心の風邪をひきやすくなった私。最近とみにひきやすい私にとってとてもハイリスクな場所でもある。それでも、やっぱり皆が好きでこの空間が好きである。ここにいると、生きている実感が湧く。一日を生き抜くことがどんなに大変なことか実感する。生きるとはとてつもないエネルギーが必要なのである。

皆で都内の庭園に散歩にいった。自然のエネルギーは人間には作り出すことのできないものである。そのエネルギーを全身で感じそして体内に取り込み、体を軽くして皆で充実した時間を共有することができたのである。

「いつもはひとりで来て、のんびりとするんです。無の世界に入り込んで行ける気がして。でも、こうやってみんなでくるのもいいものですね。」とある人が言う。

私もひとりで過ごす時間が好きである。けれども、たまにはみんなで肩を並べて自然のエネルギーを感じるのもいいのかもしれない。

7/08/2009

この世で一番美しいものは、

人の心のなかにある。そう、現代アートの作家である内藤礼さんは言う。

その言葉に脳科学者の茂木先生は、こう付け加えている。

「心の美しき人は、自分自身と折り合いがついている。どんな外見でも、境遇でも、そのような自分を受け入れ、欠点を含めて温かく見つめることができる人は、心が美しい。一方、自分がどうしても好きになれない、という人も、心の動的なバランスを回復する道はある。自分に欠けているものをめぐって、同じところぐるぐる回ってはいけない。そうすると、無限の暗闇に落ちてバランスを果てしなく崩していく。自分に欠けているものを補ってくれるものが、この広い世界の中に必ずある。そう信じて、動けばいい。一歩を踏み出せば良い。自分というジグソーパズルに欠けている「ピース」を探して世界を旅する人の姿は美しい。その人生の先には、偶然に出会う幸運が待っている。

心が美しいということを、顔の形の美しさのような、完成されたものとして考えるのではなく、常に動いているもの、未完成なもの、そして、私たちが生きる限り続いていくものと考えること。心の美しさを、ダイナミクスの中にとらえること。そのような気付きがあるだけで、生きることが楽になる人が、沢山いるのではないかと思う。未完成でもいいのです。不完全でもいいのです。現状が嫌でもいいのです。大いに動いてください。揺れてください。ただ、バランスだけは崩さないでください。

あの日、画廊の中で作品に囲まれながら「この世で一番美しいものは、人の心の中にある。」といった内藤礼さんは、一つの生命の事実を語っていたのではないかと思う。」

自分自身と折り合いをつけて、バランスを保ち生きていきたい。そう、ふたりの言葉を何度も読み返し、自分の生きてきた過程と照らし合わせ、そして現状を確認し、強くそう思ったのである。本当の意味で大人になるということはこういうことなのかもしれない。

七夕。

7月7日、七夕の日。メトロの駅にはこんな粋な計らいが・・・。早速私も書いてみた。それにしても、沢山の人が短冊に何やら書いている。この習慣、やっぱり好きである。

健康で、笑顔な日々が送れますように、と書いたのだが電車の冷房で喉をやられてしまいありえない程のハスキーボイスになってしまった。咳もとまらない。やれやれである。

でも、これ位の症状でおさまっているから感謝しなくては。

詩。

以前、谷川俊太郎の詩をブログに載せた。たしか、アメリⅡだったと思うが。友人からメールがきた。あの素敵な詩を今度朗読会で朗読したいとのこと。久々に実家に戻り彼の詩集を紐といてみようと、そう思った。

うたがうことばかりしっていて
しんじることをしらなかった

きずつくまいとして
あいするものからめをそらし
かぎりないそらをみて
かぜにゆれるきぎをみて

おおむかしをゆめみて
かえることのできるほらあなをさがした

だがいつもはあっというまに
きょうは明日となり
明日はきのうになり

あたらしくうまれてくるものたちだけが
つかのまてんしのすがたして
みえないつばさではばたき
こころのくらやみをふきちらした





大人になりたかった。でも実際大人になると嬉しさより寂しさや悲しさのほうが大きく感じる日々。子供の頃は、疑うことも知らなかったし信じることも知らなかった。信じるなんて言葉を使わなくとも、全身で信じていた・・・その意味など全くわからないのに。でもそれでよかったのである。意味とか理由なんて本当は必要ないのかもしれない。自由とは何かと考えることがすでに不自由であるように、信じるとはなにかと考えることがすでに疑いなのかもしれない。大人になった私は、傷つくことをおそれて足踏みすることばかり。

7/07/2009

23区


先日、弟の住む家に母と遊びに行き帰りに渋谷のマークシティーにあるスペイン料理屋に寄った。パエリアの出来上がりに時間を要するとのことで、23区を思い出そうということになった。20区位は順調であったのに、それ以降全くでてこない。結局わからないままにパエリアを食し、帰宅したのである。

今日、久々に逢った友人にその話をするともう一度やってみようということになったのである。やっぱり最後の3つがなかなかでてこない。そして、最後の一区・・・・ふたりの力を合わしても無理であり、近くにいた人に聞いてみた。そうだっ!練馬区だ。・・・練馬区在住の人ごめんなさい。

それにしても、以外といえないものである。東京にとても長いこと住んでいるのに・・・。皆はスラスラと言えるのだろうか、23区を。

7/04/2009

なんだか。

殺伐とした世の中・・・最近その言葉をよく耳にする。殺伐という響きも漢字も、その意味を明確化することに成功している。むしろ、増強させているようにも思う。
 
肩がぶつかって口論の末、お互い命を失う。

その背景に何が存在しているのかはNEWSではわからない。けれどもあまりにもこの事実は悲しすぎる。決してひとごとではないこの事件に何か恐怖を感じたのは私だけではないように思う。

電車の中のアナウンスに驚いた。いつからこんなに多くの注意事項を含んだ放送が始まったのだろうか。以前は、優先席の前では携帯の電源を切ること・車内では通話をしないこと位であったように思う。けれども、つい最近耳にした放送は、それに加えて、音漏れ・大声での会話なども含まれていた。


なんだか、いろんなことが漠然と不安になってきた。そんな矢先に、買い物先で横はいりをされて、とうとう悲しくなってしまった。

見知らぬ人にこそ優しい人でありたい。

7/03/2009

眠り。

夜勤の仕事を月に数回にした。そして、昼間の仕事に変更した。毎日、5時に目が覚める。珈琲もしくはハーブteaをカップに注ぎ、体に流し込む。POSTから新聞をとり、スーパーの広告をチェックする。それにしても、最近新聞も広告も薄くなったと思う。これも不況のせいなのだろうか。ひと段落したらお弁当を作る。作りながら朝食を摂る。TVをつけるが、民放は同じNEWSを繰り返し騒がしく、朝のひとときの邪魔となるためNHKをつける。メイクをして髪をとかし洋服に着替える。同居人と家をでて、毎回8:50、5号車に乗車。途中まで軽い会話を交わし別れる。次の電車はひと駅分だけ満員電車。そこを我慢すれば比較的空く。早めにつくので仕事場と駅の間のドトールでアイス珈琲を飲む。そして出勤。19:00に仕事を終え、乗り換えの駅に到着。最近お気に入りの駅中のBarでハーパーのロックWを飲みながら、よく話すカウンターの男の子との会話を楽しむ。そして、帰宅。入浴をして、時に勉強、時に読書、時に何もせず、就寝。

大きな刺激があるわけではない。日々、同じ生活の繰り返し。同じ物語が繰り返される。でも、それでいい。否、それがいい。夜に布団で眠れること。ただそれだけでも、私にとっては幸せである。

誰かがやらなくてはいけないのなら、自分がやろうと思って頑張っていた時もあった。けれども、誰かがやってくれるのなら、それに甘んじて生きていこうとそう思ったのである。夜に働く人は必要である。でも私は月に数回の夜を苦しむ子供と過ごす以外は、お布団の中にいようと思う。

体を思いっきりのばして、自分の布団で眠ることがどんなに素敵なことで、どんなに幸せか。皆、自分が生きていることがどんなに素敵なことかうっかり忘れているように、この事実も忘れているのだろう。私もうっかり忘れていた・・・やっと思い出したところである。

こころ

私は過去の因果で人を疑りつけている。
だから実はあなたも疑っている。
しかし、どうもあなただけは疑りたくない。
あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。
私は死ぬ前にたった一人でよいから、
他を信用して死にたいと思っている。
あなたはそのたった一人になれますか。
なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか。

夏目漱石 こころ



ある人が言う。人を裏切ったり騙したりするくらいなら、裏切られたり騙されたりするほうがいい・・・と。私はその意見に返答できなかった。私にはその選択はできない。そんなに強く生きられない。