6/08/2009

許し。

とっても嫌な気分になる出来事があった。

人に何かを与えたとき、(それは物とかそういうことではなく感情レベルでの話であるが)見返りを求めてるわけではない。勿論「有難う」と言われればそれはとても嬉しいことであるが、言葉も物も特にいらない。その人が優しい気持ちを他の人に送ってくれればそれで充分である。そうやって、私も沢山の人から無償の優しさをもらい、なんとかここまで生きてきた。だから、そういう生きる上での優しさの流れというものは当然止まることなどないと思っていた。もし、少しの間止まったとしても、再開すると思っていた。けれども彼女はその流れを逆にした。逆流させたのである。そんなひどいことはない。もうそんなことはないと思っていた。迂闊だったのか。そう信じたくないがそうなのだろうか。彼女はどうやら、優しくない人間であったようだ。

心の風邪をひいた人のもとに行っていると思うことがある。人間の悩みの大半は「お金・男・女・家族」であると・・・。そこに問題がないときは、平凡に生きることが可能である。けれども、自分が当事者ではなくともその渦に巻き込まれると大変なことになる。

「この世は不条理で満ち溢れている。」

この言葉はなるべく思いだしたくなかった。でも思いださずにはいられなかった。そして悲しくなった。彼女にとって、女友達など必要なかったのである。必要があるとすれば、それは自分に甘える異性がいなくなり寂しくなった時だけ。若ければ許されるのかもしれない。誰でも通る道なのかもしれないから。けれども、もうわかってもいいのではないか。友人とこの空のどこかでつながっていないと、生きていくのは辛いんだという、そのあまりにも簡単なはずの事実を。

あまりにも、友人から聞いた事実に唖然として美味しいはずのお料理もあまり進まず、お酒をいくら飲んでも酔えず、なんでそんな事になっているのか全く私には理解できず、帰宅する道すがら同居人にメールをした。起きて待っていてくれた彼女に全てを話し、なんだかもういいやという気分になった。そんなことより区民税の高額請求で頭をいっぱいにすることにしたのだ。

やっぱり、私には友人が必要であり大事な存在である。同居人を前にしてしみじみと思ったのである。彼女はいつか気づくのか、それとも気づかないのか。でもそれは、生きる価値観の相違であり私は彼女に生き方の強要をすることはできない。だから、もう彼女との関係は終止符を打つということで全て忘れることにした。

経済評論家であり公認会計士である、勝間和代さんの言葉を新聞で見つけ、今の自分に向けられているのではないかと、早速切り抜いた。 そこには、こう書かれていた。

「許しには、力がある。」
私たちが生きていくうちに、どうしても自分が被害者だと感じること、あるいは、自分がいわれもなくひどい目にあったと思うことが折々にあります。そんな時にその事柄や、または、そういった不利益をもたらした相手にあまりにも固執していると、「被害者意識」に捉われ、それが将来への呪縛となり、身動きがとれなくなってしまいます。しかし、そんな時に相手や、そうなってしまった自分を許すことで、将来を考えることができるようになり、悪影響から逃れられます。(中略)相手を許すことは自分を許すことでもあり、将来に向かって、新しいチャレンジをする力にもなります。「許しの力」を日々の習慣にし、生活の中で活用してみれば、身の回りの風景がまったく違って見えてくるはずです。

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