4/14/2009

モヒート。



悲しいわけでも嬉しいわけでもない。苦しいわけでもない。悔しいわけでもないのに涙が溢れることがある。そんなことってあるだろうか。少なくとも私にはある。突如自分を囲むなんともいえない気持ちに涙が溢れることが・・・。見えない何かに守られて人は生きているのだろう。見えないものであるから、それを沢山感じてそこに感情を照らし合わせることは、自分を誰よりも信じてあげなくてはできないと思う。だから、やっぱり少しづつ自分を信じて大事にしていきたいと思うのだ。


久々に夜間小児救急外来の仕事を再開した。子供は好きである。でも小児科は苦手である。小さな体で必死に病気と戦っている姿を見るのは本当に辛い。その姿を見ながら、必死で子育てをしている親を見るのは本当に辛い。だからその辛さから逃げてきた。でも、久々に舞いこんだ仕事を受けることにしたのは、今ならまた違う見方ができるのではないかと思ったからである。

夜中に子供を抱えて沢山の人がくる。私は健康な子であったため両親が夜中に病院に私を連れていくということはなかったように思う。けれども、すぐ下の弟は、喘息であった。夜中から明け方にかけて小さい体で必死に呼吸をしていた姿を時々ふっと思い出す。弟が発作を起こすたびに私は近所のおばちゃんの家にお世話になっていた記憶はなぜだか今でも鮮明に覚えている。

まだ2歳にならない子供が両親に連れられてやってきた。「苦しがっていて・・・。」と。先生が胸の音を聴くために洋服をはがすと胸に大きな傷がある。心臓の手術後であった。小さな体に不似合いなその大きな傷になんだか悲しくなる。そう、だから私は小児科の看護師には向いてない。すぐに感情移入をしてしまうから。


2歳にならない彼が他の子と違うのは、常に私たちに笑顔なことである。両親が言う。「この子は生まれてからのほとんどを病院で過ごしているので、看護師さんが大好きなんですよ。」。珍しいことである。大抵、笑顔を見せてくれるのは最初だけである。処置の介助のためその小さな体を押さえつけると、途端に嫌われる。小さな体で必死に抵抗をしながら、私たちはひどいことをする人であるとインプットしているようだ。


両親のもとには行こうともせず、ひたすら私にぴたっとひっつくように抱っこをされている彼の体温を感じながら、こんなに小さくとも世の中のいろんなものを体全体で察知して必死に生きているんだなぁと思った。彼は彼なりに自分の場所というものを模索しているのだろうし、自分の病気を受け入れているのだろう。全てを本能の部分で。


小児科は生きるエネルギーに溢れているところである。昔の私はそれをきちんと感じることができなかった。でも今は感じることができる。だから、やっぱり今なんだと思った。再開した小児科の仕事で、沢山のエネルギーを感じようと、そう彼を感じながら思ったのである。

あの時の自分より、今の自分のほうが強くなっている。今やっと、あの時の子の死を受容できたように思う。「運動会にでるのが僕の夢なんだよ。」「弟と妹にもパパとママが必要だから・・・・僕はお兄ちゃんだから大丈夫。それに看護婦さんもいるもん。だからもうお家に帰って。」 そういつも言っていたあの子の生きるエネルギーを今やっと受けることができたような気がする。きっとかれは空で楽しく遊んでいるに違いない。

そんなことを、台所で育てている植物に水をあげながら思った。



今年は大好きなモヒートのミントを自家栽培することにした。モヒートとサルサで今年の夏も乗り越えるために。



0 件のコメント: