4/30/2009

青春18切符

青春18切符を購入したものの、時間がどうしても確保できなかったため、のんびり旅は諦めて、その切符は母に「大好きな小旅行に行ったらどうかしら?」との手紙付で送った。

母は旅の先輩である。パスポートは持ったことがないため国内ではあるが、沖縄以外の土地はほぼ周ったというバックパッカーである。母はお寺や花や陶器が好きである。今も家で使う食器には沢山の思い入れがあるようである。欠けてしまったり、割ってしまったりすると「形あるものはいつか壊れるのよね・・。」と自分自身に言い聞かしている。

最近、あるお店に大事な本を2冊忘れてきてしまった。気づいたのは1時間後。大事にしていた本なのですぐに戻った。けれども非情にも本は見当たらなかった。とてもとても大事にしていたのに・・・。あの本は一体今、誰のもとにいるのだろうか。誰かを幸せにしているのならそれはそれでいい。でも違うのなら返してほしい。また、あのお店のあそこに、こっそりとで構わないから。

形あるものが壊れるように、物はいつか自分から離れる、人との別れがあるように。 ・・・・ということなのだろう。でも。

そういえば、ある小説にこんな話があった。ある時、大好きな本を売った女性。なぜ売ったのかは自分でもよくわからない。でもなんとなく売ってしまった。そして、ある時、どこかの国を旅していると、その国の古本の中に自分がかつて売った本があった。そして、またその自分の本である印があるその本を購入する。・・・・確かそんな話であった。なぜか、その話がとても好きである。そのぼやけた感じのお話にいろいろなものが詰まっているように思ったから。

私の大事な本はきっと今、旅をしている。きっとそうなのだろう。役割を果たした時、きっとまた戻ってくるに違いない。

母から電話があった。青春18切符を使い思う存分楽しんできたようだ。5回分の残りは、下の弟が彼女と一緒に日光を旅するのに使ったとか。私の大好きな青春18切符。その切符はいろんな人達にいつまでも消えない記憶をプレゼントしているのだろう。

今度こそ、青春18切符を購入してのんびり旅に行こう。それまでは、時刻表で楽しむこととしよう。

4/27/2009

2007,10月

2007、10月。

ふっと蘇る記憶。断片の記憶を確かなものにしたくて2007、10月の日記を紐といた。なぜだか、あの時に考えていたことが今の私の胸をつく。

そうかぁ、そうだった。あの時も今も、私は私であるという当たり前の事実。そしてスローテンポで進む私の毎日。次回はいつの日記を紐とこうかなぁ。

今日は星野道夫のアラスカの写真を眺めながら床につくことにした。

「ぼくが暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち遠い異国で自分と同じ一生を生きている。」  その言葉から大事な人たちを連想する。

まだ、何も描かれていない明日を楽しみにしながら、今日も眠りにつく。good night,see you

私の空間。


仕事場に、違う病棟に移動になった姉さんが遊びにきてくれた。「ものすごく遅くなったけど誕生日プレゼント。」と言いながら。

早速、玄関を開けた前の私の空間に仲間入りをさせた、ET君の横に置いてみた。なかなかいい感じである。早速、プロジェクターで観ようかなぁ。

退院した患者さんから、病棟に私宛の手紙が届いた。様々な話をしたおじちゃまなので記憶には鮮明であるが、まさかお手紙をくれるとは思わなかった。久々に心温まる手紙をもらい、乳がんのおばあちゃまや、食道癌のおじいちゃま、肝臓がんのおじちゃまや・・・・さまざまな方から頂いたお手紙を思い出した。悲しみや辛さ、生きるうえでのプラス以外の感情、そういうマイナスの感情を体験している人は、強い、そして優しい。皆から強さと優しさをもらうたび、こう思う。人間は自分が思っているよりもはるかに、遥かに、強いのであろう。・・・・と。

浅田家。

                        自宅、トイレ空間。

同居人と渋谷で待ち合わせをした。目的は、パルコで開催されている写真展「浅田家」をみて、その足でお気に入りのチェコ料理を食べに行くためである。

浅田家の息子は写真家。ある日から家族で様々なテーマで写真を撮り始めた。そしてやみつきになっていたそうだ。ある時は、消防団員、ある時は、居酒屋、ある時は、病院、ある時は・・・・。とにかく面白いのである。一番よかったのはソファで4人と犬1匹にてお昼寝をしている写真。写真から家族の幸せな時間が飛び出してくる!

そして、チェコ料理を食べにcafe anoに行く。美味しいお酒と料理、のんびりと流れる空間。プラハを旅した時を思い出す。なぜか、anoのトイレはチェコにいながらキューバとなる。扉を開けるとそこに流れるのは東欧と真逆に位置しそうな世界である。そのギャップにも惚れてしまう。

ひとつ前の駅で降りて、同居人と夜の散歩をした。「いるときは、何とも思わないのにね、いないと相手の存在を強く感じるよね。」そう言われて、そういえばそうだなぁと思いながら。


 

休日。


                       倫太郎も日向ぼっこ。

昨日は、喫茶店の常連さんと夕食を供にした。一緒に働く子とその友人が家に泊まりきた。同居人は実家に帰っていたため、いつも彼女と眠る寝室もどきの部屋の布団をくっつけて3人で川の字になって眠った。「おばあちゃん家にきたみたい。」と嬉しそうに言う彼女達に癒される。

今日はお休み。彼女たちは仕事である。ひと足先に起床して朝ごはんを作り、洗濯をして、友人のスカートにアイロンをかける。煮干しでとっただしに、秩父に行ったときに購入した菜の花の乾物を水で戻した物と、ジャガイモを入れてお味噌汁を作り、鮭を焼き大根おろしをそえる。レタスとキュウリをタマネギドレッシングであえて、ゆでたウインナーを混ぜ、残ったゆで汁でゆで卵を作りサラダを作る。

朝ごはんの支度もアイロンも、誰かが喜んでくれると思うと苦にならない。そういえば、基本的に父は母の料理しか食べない。ふっと、朝からアイロンをかける母の姿を思い出す。

友人達が食事をしていると、同居人が帰宅する。同居人はどこに行っていても、仕事の前は必ず家に帰ってくる。家に人がいるって、人を感じられるって、素敵である。

友人達が仕事に行った。お日様が家中を明るくする。お布団を干し、掃除をすることにした。住んでいる家なのに、いつもと同じ風景なのに、ほんの少し見方を変えると、また新たな楽しみが見出せる。その考えが、生きることを楽しくさせる原点であるのだろう。


                     ビールであれば瓶ビールが好きである。

かすかな気配。

ある言語学者の本を読んだときになるほどと思った。言語とは記号と同じであると。例えば、本を見たときにこれは本であると皆が認識できる。それをりんごと思う人は絶対にいないとは言わないが、ほぼいないだろう。  そういう共通認識をもつことで世界は回る。 

ある本に、「人間は口ばかりでコミュニケーションをしているわけではない。かすかな気配をお互いに感じ合っている。敵意をもっている人と愛情をもっている人では、わずかな身振りやまなざしや音調や触れ方が違う。そういうふうに非言語的な方法で伝えられていくメッセージがある。」と書かれていた。

本当にそうだなぁと思う。言葉にされることで嬉しいことも沢山ある。けれども、非言語的な仕方で伝えてくれるメーセージは、ある特定の人としかわかちあえない。だから、その方法でメッセージが伝わると、全身が受信モードとなり、受信が完了するたびに幸せが上がっていき、広がっていく。

ただ、非言語的な方法の欠点は逢わないと受信できないことだ。電話でも可能かもしれないが、あまり有効に思えない。言語であれば、メールや手紙で伝えることができる。自筆の手紙は非言語的な要素をすこしばかり含んでいるようにも思うが、やはり逢うということに勝るものはない気がする。

言語的、非言語的、その両方を自然に使い向かい合うことができる人に出逢えて嬉しかった。あぁ、本当に嬉しいって思った。もう5日も経ったけど今もその気分は変わらず、そろそろ言語的にも非言語的にも伝えたいなぁって思うけれど、どうしよう。もう少し、この気持ちを体に染みこませていようかなぁ。

こんなにも人に逢いたいとか伝えたいとか思ったのはとっても久々で、mayuchan chiechan machisan
naochan namichan akikosan satomisan ・・・のなかにどぉんって着陸したその人を思って。

さて、同居人が帰宅したのでこれから商店街をお散歩。オランダのパンケーキとビールが飲めるcafeに行くことにした。

幸せ送り。

スペインを漢字で表すと、西班牙であると知った。なんだか漢字で表すとスペインのあのなんとも言えない居心地の良い空気がまた違った色を出すような気がする。

あの、肌にひんやりとする空気。あの薄い空気。呼吸困難に陥りそうになる感じ。もうすぐ空っぽになる予定であった私の酸素ボンベは今は満タン。今度こそ、満タンになったボンベから大事に酸素を使おうと思う。それが、私のボンベを満タンにしてくれた大事な人たちに対する私の精一杯の有難うであるのだ。

今、私の肌は温かい。ほっぺがほんのりと赤みを増す程度の温かさである。大きく深呼吸もできる。そう、それは彼女達や彼のおかげ。

人が私に与えてくれる、貴方は間違いなくここにいるのよ。いていいのよ。という空気。それが、全て。

夜中中、雨が降っていたせいか、子供を抱えてやってくる親は以前の半分程度。ほとんどを仮眠にあて、定時の7時に上がることができた。病院をでたそばにあるコンビニで親友がまっているはずである。水色のような青のようなかわいいマーチで私を迎えにきてくれた。小柄な彼女にはそのマーチがとても似合っている。

「おはよう。早く乗って頂戴。今日はハードスケジュールよ。」そう笑顔で言う彼女。出会って10年。その時からどんなにお互いの環境が変化しようとも変わらない関係性。だから、私はいつでも彼女に甘えてしまう。

酸素ボンベが空になりそうなことを彼女は知らない。その話はしていない。でもきっと彼女にはお見通し。根拠はないけれど、そう思う。

今日は彼女の企画したミステリツアーである。私はどこに行くか知らない。

まずは、秩父の柴桜を堪能した。一面のお花畑は圧巻である。自然は全ての人に平等。人間に警告や、警告の守らなかったときのお叱りはあっても、意地悪はしない。だから安心して身を置ける。沢山深呼吸をして柴桜を後にした。




秩父から川越に向かった。目指すは「西班牙市場」。以前より彼女が連れて行ってあげたいと言っていたので存在だけは知っていた。本当にここのスペイン料理は美味しいのよと興奮気味に話す彼女。スペイン語が堪能で頻繁にスペインに通う彼女が言うのだから間違いない。・・・・やっぱり間違いなかった。その料理の美味しさも、サービスも、そして内装は私の旅熱を急上昇させたのである。このお店は、スペインを旅した時のことを思い出させる。素敵な記憶が更に素敵な記憶として蘇る。素敵な空間で美味しい料理を親友と食べれることが幸せである。  次に訪れるときはあの人も連れて行きたいと親友に話そうと思う。きっと、川越まで迎えにきてくれるであろう。満面の笑みで。



川越に来たので、小江戸と呼ばれる川越の町並みを楽しもうと車を駐車場に置き、散策をすることにした。最後に川越に来たのがいつかも思い出せないため、新しい気分で川越を散策できた。最後に入った珈琲屋さんで、大好きな珈琲を挽く音と匂いに包まれながら、美味しい珈琲を試飲させてもらい、 少しばかりのお土産を購入して散策を終了。

次に向かったのは、埼玉県の県花 である「さくら草」が咲く公園。その公園は私の公園の概念を、気持ちよく壊してくれた。右をみれば、解体したバイクを組み立てる人がいる。左をみれば、楽器を演奏している人たちがいる。ベンチでひとりもの思いにふける人をいれば、夫婦で静かに座っている人もいる。子供を連れて来ている人もいる。とにかく、皆が自然に守られれて思い思いのことをしている。その空間を、親友と歩いた。さくら草はこじんまりと咲いていた。点々と咲くさくら草、遠慮がちに咲くその姿にどこか優しさを感じる。

日も暮れてきた。浦和駅まで送ってもらい今日のミステリツアーは終わり。「私、男だったら結構いけてると思うんだよね。」そう笑う彼女に、「貴方が男だったら間違いなく惚れちゃうね。元気でたわ。有難う。」とメールをした。

帰宅して、早めのお風呂に入り、そういえば楽しすぎて忘れていたけど今日は明けだったわと思い出し、突如眠気が襲うちびっ子のような自分がおかしかったけど、19:00に床に入り顔にパックをしながら、本を読んでいると、珍しく滅多にならない電話が鳴る。

二人の彼の間で恋の沼にはまる友人からの電話であった。「彼が急遽仕事になったから、あの人に逢いたくなって、あの人に逢いたいって電話をしたら、遅くなるかもしれないよ、と言われたんだけど、もしかしたら逢えるかもしれないから待っているの。」そんな内容の電話であった。

もしかしたら逢えるかもしれないから、その「もしかしたら」に自分の逢いたいという気持ちを全てかけて待つ彼女の気持ちが痛いほどわかる。5分だって10分だって、逢えればそれだけで嬉しくて、逢えなかったら、「わかっていたもの。。。」と叫びたいけど、つぶやくことしかできなくて、その寂しさをどこに持っていけばいいのかわからなくて、どうしようもなく寂しくなるあの感じ。

本を閉じ、パックをとり、メイクをして彼女に逢いに行った。自分でも驚く行動力。友人の嬉しそうな顔を見たら、なんだかひと安心して、あの人からの電話を嬉しそうにとる友人に更に安心して、あの人に逢える!と飛び上がりそうになる友人を可愛いなぁと思いながら、見送った。友人が、家庭を振り返ることを止め、あの人のもとに向かう姿を見て、ひとまず自分が幸せではないとねとつぶやいてみた。

「恩送り」ならず「幸せ送り」。

帰宅して、今度は本当に「おやすみなさい。」

4/21/2009

ベトナム。

なんだかしっくりこない。世の中の空気全てが肌にひんやりとする気がする。つり橋の上で不安定ながら、なんとか恐怖と隣り合わせになりながら、立つことができている、そんな気分である。できることなら、つり橋から降りたい。それが今の私の希望。でも、そう簡単には降ろしてくれない。それが世の中。

気分が乗らないのは天気が悪いせいなのか。気圧の問題かなぁ。でもきっと、酸素が後ちょっとで空になるからだろう。新鮮な空気を吸わないと人は曇ってくる。きっと、そうに違いない。もう少しで私も曇る。

同居人とベトナムに行くことにした。と言っても家の中でベトナムを感じるということである。冷蔵庫の残りものでクリームパスタを作り、それを食しながら、電気を消しプロジェクターで友人から借りた「水曜どうでしょう ベトナム編」をつけた。

アジアの雑踏が好きである。あの雑多な感じ。砂埃がすごくて、よくわからない臭いがたちこめて、なんで私はここにいるのか、なんで生きているのかなんて、そんな余分なことは一切考える隙間がない、あの忙しいのにゆっくりとした時間が流れる、あの感じが好きである。人が自分をどうみているかなんて考える必要もなく、私は右に行きたいから行くのよ、みたいな強行な感じも好きである。アジアでは私が今感じている、「肌にひんやりする感じ」、を味わうことは、ないのである。

そういえば、日本もアジアだった。

ベトナムは足を踏み入れたことはない。でも、気分は充分ベトナムであった。同居人とお腹が痛くなる位笑って、笑うことに疲れて最後のゴールを見逃して、眠いからもう歯磨きして寝ようか、みたいな感じで幕を閉じた一日。やっと一日を乗り越えた。

今日は小児のエネルギーを感じ、明日は早朝に迎えにきてくれる親友からエネルギーをもらい、夜は喫茶店でエネルギーをもらい、明後日は心の風邪をひいた人たちからエネルギーをもらい、久々に会う友人からエネルギーをもらい。

私の酸素ボンベはこれで満タンになるかもしれない。大きく深呼吸がしたい、それが今の私の希望。



4/19/2009

名曲喫茶




いつも定期は機械ではなく窓口で購入している。大きな意味はないけれど、なんとなく窓口で購入している。1年間も同じ定期を持っていたのに、今日まで知らなかった事。ふたつ先の駅まで同じ値段で定期を購入できたこと。西荻窪に行くことも吉祥寺に行くことも今はほぼない。それでも、その事実を知ってしまった今、なんだかとってもくやしいのはなぜだろうか。宝くじの当選番号の数字がひとつだけ違う・・・と嘆く人はこんな気持ちだろうか。なんだか私ちっちゃいなぁ。


久々に阿佐ヶ谷の地に降り立った。以前は友人がこの近辺に散在していたのでよく来ていており、阿佐ヶ谷と高円寺の名曲喫茶にはよく足を運んでいたように思う。あの当時のままの名曲喫茶でsozoroの演奏会があるのを、偶然ある喫茶店に置いてあるちらしで知った。・・・ということで行くことにしたのである。


ものすごく久々にSPの音を聴いた。そのなんともいえない音に酔いしれる。SPでシャンソンやブルースを聴くことができたら、その時間は至福の時になるに違いない。そんなことをふっと思いながら、SPの音とsozoroの演奏に耳を傾ける。なぜだか、音を聴きながらいろいろな感情や映像が頭をめぐる。私は音を聴きながら、ひとつの物語を完成させた。その妄想じみた物語は私の中に何かを吹き込んでいく。この温かい、のんびりとした時間は旅に似ている。


SPは針をひとつの演奏ごとに変えるとのこと。マスターはその針を探し世界中を旅して大人買いをしてくるのだとか。なるほど、喫茶店を流れる空気がどこか旅を彷彿させるのはそんなところにもあるのかもしれない。




私の偏見かもしれないけれど、旅行ではなく旅が好きな人はcafeではなく喫茶店が好きでありコーヒーではなく珈琲が好きな気がする。  帰り際に「今度はケニアに行くんだって。」という言葉が聞こえてきた。あぁ、やっぱりどこか同じ匂いを持つ人は集まるのかもしれない。そんな気がした。

4/17/2009

村上春樹

                                            ボスニアにて。

本当は知っている。世の中には説明などつかない、だって意味などないから、そんなことだって沢山あるってことを。嬉しいことには意味などもたせなくても受容できる。でも、悲しいことや辛いことには理由が必要である。そのことに意味がなければそれを受容などできないからである。だから、一生懸命に考えるのだ。例えば、失恋したらその悲しみを受容するために、次の新しい素敵な人に逢うための準備には必要な別れだったとか・・・そんな具合に。


でも、この不条理にあふれた世の中でほとんどのことに意味など存在しないのである。なぜなら不条理な世界であるから。なんで死んでしまったかを考えても結論などでるはずがない。意味などない。死んだのである。その事実だけが全てである。 なぜ、あの人は私のことを好きになってはくれないのだろうか。意味などない。好きになれないから好きになれないのである。

人は、自分にも相手にも納得のいくような答えを見つけたがる。どんなに歩いても、どんなに耳を澄ませても、どんなに人に質問しても、とにかくどんな手段を使おうが答えなどないのである。

人間の精神は「意味のないこと」に耐えることができないらしい。確かに、私も全ての事象に意味があると思って生きてきた。

でも、春樹の本を久々に紐解き思った。内田先生も言うように、そう、「この世には無意味なものに意味はない。」という明確な事実であり真実があることを。


「踊るんだよ。」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることがわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてかんがえちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」   <ダンス ダンス ダンス 上 より。>


そう、いつもいつも考えていたらしんどい。息切れをしてしまう。時々、思い出さなくては。


忘れてた、意味などなかったわ・・・って。

よしもとばなな

チエちゃんと私  
大好きなよしもとばななの本は繰り返し読んでいる。20歳の時の自分と25歳の時、そして30歳、31歳では同じ物語のはずなのに、違う物語を読んでいる錯覚に陥る。

同じように、よしもとばななが好きな友人からメールがきた。「この本を読んだら、アメリとアメリの同居人に逢いたくなってきたわ。」。

3年前は独り暮らしをしていた私に、この本の印象派驚くほどない。なんとなく頭の片隅に題名と表紙は浮かぶものの、どんな話であったかの記憶が全くなかった。

早速、もう一度読むことにした。同居人と自分にもリンクをするし、生き方や感じ方、恋愛にもリンクするその本を、私も一気に読んだ。よしもとばななはどうしてもこんなに、私の言いたいもやもやしたものを素敵な日本語で表現できるのだろうか。彼女にかかると全ての事実が色づくのである。

私が求めている愛とはばななが表現するように「何か大きくて温かいものに寄り添って、安心している感じ。」であり、きっとそれを感じたら、性別や相手の背景やそんなものは全てちっぽけなものに映ってしまい、自分に正直に相手に近づき、離れないのだろう。

ときめきとひらめきにはあらがわない。

なんて素敵な言葉だろう。

読み終えてから、イタリアを旅したときにみた、システィーナ礼拝堂の天井画をどうしてもみたくなった。なんだろう、この本からあふれ出す、母性と愛が天井画と結びつくのである。

仕事が終わり、新宿の駅のホームでボーっとしているとNEXが停車している。そうか、これに乗れば、成田空港はすぐそこであり、いつもパスポートは携帯しているし、なんだかこのままイタリアまで飛んで行けそうな気がしたし、飛んでいってもいい気がした。

4/14/2009

モヒート。



悲しいわけでも嬉しいわけでもない。苦しいわけでもない。悔しいわけでもないのに涙が溢れることがある。そんなことってあるだろうか。少なくとも私にはある。突如自分を囲むなんともいえない気持ちに涙が溢れることが・・・。見えない何かに守られて人は生きているのだろう。見えないものであるから、それを沢山感じてそこに感情を照らし合わせることは、自分を誰よりも信じてあげなくてはできないと思う。だから、やっぱり少しづつ自分を信じて大事にしていきたいと思うのだ。


久々に夜間小児救急外来の仕事を再開した。子供は好きである。でも小児科は苦手である。小さな体で必死に病気と戦っている姿を見るのは本当に辛い。その姿を見ながら、必死で子育てをしている親を見るのは本当に辛い。だからその辛さから逃げてきた。でも、久々に舞いこんだ仕事を受けることにしたのは、今ならまた違う見方ができるのではないかと思ったからである。

夜中に子供を抱えて沢山の人がくる。私は健康な子であったため両親が夜中に病院に私を連れていくということはなかったように思う。けれども、すぐ下の弟は、喘息であった。夜中から明け方にかけて小さい体で必死に呼吸をしていた姿を時々ふっと思い出す。弟が発作を起こすたびに私は近所のおばちゃんの家にお世話になっていた記憶はなぜだか今でも鮮明に覚えている。

まだ2歳にならない子供が両親に連れられてやってきた。「苦しがっていて・・・。」と。先生が胸の音を聴くために洋服をはがすと胸に大きな傷がある。心臓の手術後であった。小さな体に不似合いなその大きな傷になんだか悲しくなる。そう、だから私は小児科の看護師には向いてない。すぐに感情移入をしてしまうから。


2歳にならない彼が他の子と違うのは、常に私たちに笑顔なことである。両親が言う。「この子は生まれてからのほとんどを病院で過ごしているので、看護師さんが大好きなんですよ。」。珍しいことである。大抵、笑顔を見せてくれるのは最初だけである。処置の介助のためその小さな体を押さえつけると、途端に嫌われる。小さな体で必死に抵抗をしながら、私たちはひどいことをする人であるとインプットしているようだ。


両親のもとには行こうともせず、ひたすら私にぴたっとひっつくように抱っこをされている彼の体温を感じながら、こんなに小さくとも世の中のいろんなものを体全体で察知して必死に生きているんだなぁと思った。彼は彼なりに自分の場所というものを模索しているのだろうし、自分の病気を受け入れているのだろう。全てを本能の部分で。


小児科は生きるエネルギーに溢れているところである。昔の私はそれをきちんと感じることができなかった。でも今は感じることができる。だから、やっぱり今なんだと思った。再開した小児科の仕事で、沢山のエネルギーを感じようと、そう彼を感じながら思ったのである。

あの時の自分より、今の自分のほうが強くなっている。今やっと、あの時の子の死を受容できたように思う。「運動会にでるのが僕の夢なんだよ。」「弟と妹にもパパとママが必要だから・・・・僕はお兄ちゃんだから大丈夫。それに看護婦さんもいるもん。だからもうお家に帰って。」 そういつも言っていたあの子の生きるエネルギーを今やっと受けることができたような気がする。きっとかれは空で楽しく遊んでいるに違いない。

そんなことを、台所で育てている植物に水をあげながら思った。



今年は大好きなモヒートのミントを自家栽培することにした。モヒートとサルサで今年の夏も乗り越えるために。



4/12/2009

ひたすら書いた結果、わかったこと。

Le Fabuleux Destin d'Amélie ,  にこうやって何かを書き残すことをする自分に何をしたいのかと問いたくなることがある。日記なら手帳に書いているし、他の忘れたくないことだって逐一手帳に書き込んでいる。だから、このLe Fabuleux Destin d'Amélie ,に向かっている自分に首をかしげることもある。私という存在を知っていてこれを読んでいる人は両手で数えられるほどしかいない。だから、やっぱり手帳の日記だけでいいのかなぁと思うこともある。  昔、あるコミュニティサイトに日記を公開していたことがあるが、ある日何か糸が切れたように全てを削除して、終了させたことがある。  最近も、突如ぷつっとしたくなることがある。でもしないのは、なんとなくほわんと自分の存在がここにあることを誰かに知っていてもらいたいからだろう。

いつも突然書きたいことがあふれ出す。そして飽和状態となった言葉を拾い集め、文にしていくのは難しい。仕事が終わりを告げると、不思議なことにあんなにも眠かった自分はいない。帰宅してすぐに眠りにつけばいいのに、何やら活動的になっている自分がいる。 一昨日から引きずる仕事場のイライラは治まる気配がない。自分の常識は他人には非常識に映るかもしれない・・なんていうおまじないめいた独語では自分をだませない。 ひとりやふたり嫌いな人だって、好きになれない人だって、価値観の合わない人だっているものって言い聞かしたって、駄目である。  あぁ、どんなに発想を転換させてもあの偉い人を受容できないのである。仕事の先輩としてはすごいはずと思ってもみたけれど、人間的にどうかと思うとその思いも無駄足のようである・・・・。 ラジオを810にあわせて、頭を日本から逃避させお気に入りのソファで体をくの字にして窮屈に眠る。気づけば、20:00で同居人が帰宅している。ひとしきり、今日の受容できなかった出来事を聞いてもらい、こないだもらったちょっと高級なチリワインを開け、チーズをつまみに飲むもなんだか低迷期からの脱出は図れず、22:00前には床につく。

どんなときでも朝は訪れるという事実にどこか納得がいかない自分もいるが、今日は新しい日であると言い聞かせて、心の風邪をひいた人たちのもとに出掛ける。最近調子の悪い人から私宛ての電話がはいる。「腰が痛いから湿布を貼って。今からいくから。」。調子が悪くて外に出られなかった彼が、会いにきてくれた事実に私が癒される。どうやら心の風邪を私もひいていたようだ。少し、よくなったかもと思いながら、いつもの職場に向かう。今日はあの人はいない。そんな子供じみた確認をして安堵する自分に情けなくなるが、それはそれで人間臭くていいのかもと少し自分を甘やかしてみる。土・日の病棟は時間がゆっくりと流れているから好きである。いつも以上にのんびりとでき、ゆっくりと相手の話を聞いてあげることができ、結果私が一番癒されている。その気分を引きずり病院を後にして、新宿で途中下車した。お気に入りのBERGに向かうために。 久々にタバコの煙を吸いたいと思ったけれど、タバコとマッチを用意するのは面倒であり、そんな時はタバコに一番合う飲み物であると思う珈琲を飲みに行こうときたわけで・・・期待どおり、店内は所狭しとタバコの煙が立ち込めており、その中で、美味しい珈琲を飲み誰か歌っているかわからない、ジャンル不明の騒がしい音楽を聴きながら過ごすことに成功したのである。やっぱり、この場所は私を裏切らない。

こうやって、誰に何を書きたいのか、何をしたいのか、もうこんがらがって全てを投げ出したくなるときはある作家のあの本をとりだす。さて、取り出そうと思ったらない・・・・そういえば友人に貸し出し中であった。あぁ、なんてこと。仕方ないので図書館に行くも見当たらず。結局本屋で再購入した。あの本は彼女にあげることにしよう。そう決めた。

彼女の本から自分の好きな言葉を何度も読み返して、なんだか安心する自分がいる。
「人は、人生が一度きりで、自分はひとりしかいない。そんな一番基本的なことを忘れてしまう。私たちは、食べるために生まれてきたのではなく、勿論お金のためでもなく、楽をするために生まれてきたのでもなく、子孫を残すためでもなく、長生きするためにでもなく・・・・自分の情熱を燃やすために、向いていることをこの人生でやりつくすために生まれてきたのではないのだろうか。愛する人びとの愛情を抱きながら、沢山のよき思い出をつくって、それを大事に抱えて悔いなく死ぬためにここにいるのではないだろうか。忙しく、いらいらして働いて、一回も立ち止まらず、人生を捨てた形でいつも自分では何かが足りない、劣っていると思いながら、死に急ぐためでは絶対にない。

もしも、カレーにたまたま猛毒が入っていて今日死んじゃったとしたら、私はきっと、やっぱり自分がこの一皿を選んだからしかたないな、と思って死にたい。」

普段、メールをあまりしないし返信も遅いから同居人にもよく叱られるし、友人にも返信がないと叱られる。でも、さすがに諦めたのか皆私の返信猶予に3、4日与えてくれているようだ。今の時代に私が中・高生であったら確実に友人をなくすのだろう。友人にこう言われた。「最近は15分以内に返信しないと削除されちゃう世の中らしいよ・・・。」あぁ、よかった昭和生まれでと思う瞬間である。  こんな風に書き綴っているとメールが嫌いだと思われそうであるが決して嫌いではない。きっと好きなんだと思う。逢って話す、電話、の次くらいには。  でも、メールって悩みどころ満載なのである。 メールの利点はいつなんどきでも相手の都合を気にせずに、自分の伝えたいことを伝えられることであるが、それは私にとっては欠点でもある。24時間の自由を与えられるといつ送ることが相手にとってbestなのかわからなくなる。書いた内容をもう一度読んでみて、今すぐに送る必要があるのか考えだすと今ではないような感じがしてくる。そうなると、もう送ることができなくなり次の機会まで保存するという結果にいたる。しかし、またその機会がくると、今なのかと考え出してしまいわからなくなる。現在、保存箱に2通保存されている。いつになったらこのメールを相手に送ることができるのだろうか・・・。メールって高等なコミュニケーションのツールであるとつくづく思うのである。




BERGでひとり時間を楽しみ帰宅すると同居人がいた。「かぼちゃのニョッキ作ろうと思うんだけど、ひとりで食べるのはなんだか嫌なのよ。ほら、ニョッキってひとりで食べるものではないように思うでしょ。だから、作ったら一緒に食べてくれる?」そう、一気にまくしたてる彼女。肯定的な返事を返すとすぐさま、台所でやっぱり810にチャンネルを合わせ楽しげに料理をはじめた。今日は、久々に小児救急外来の仕事の日である。ニョッキを食べて、ちょっと散歩して眠りつこうと思う。

書きたいことの飽和状態からはぬけだせたけれど、なんとも支離滅裂なひどい文章にもう笑うしかない状況である。まぁ、よしとしよう。だって、私には湿布を貼ってほしいと会いにきてくれる人もニョッキを作ってくれる同居人もいるのだから。そう、だから他に何もなかったとしてもそれでよしとする。

おわり。

4/10/2009

三つの能力、そして婚活。

内田樹先生のブログにて、興味深い文章をみつけたので転記してみた。彼の文章にはいつでもはっとさせられ、そして考えさせられ、自分の生き方の柱をみつけることに成功する。そしてグエル公園の柱を思い出す。

ここ最近、世間で話題な言葉のひとつに「婚活」がある。友人間でもよく話題にのぼる。真剣に婚活をしている友人は周りにはいないと・・・・思うけれど、しなくてはという言葉はよく耳にする。いいか悪いかは判断できないけれど、自分が活動をしたいかしたくないかと問われたら、したくない。別に内田先生が言うようなSomeday my prince will come と思っているわけではないが、きっとこの考えは変わらないのだろう。

けれども、それに伴ってなのかそれ以前からなのかは不明であるが、草食男子と肉食女子、そして枯女という言葉まで出現した。ここまでくると、明らかに世間がメディアを使って遊んでいるとしか思えない。勝ち組、負け組という言葉がでてきたときもいささか、カチンコチンときたが、今回はなんだか笑ってしまう自分がいる。メディアは私たちをどこに連れていこうとしているのだろうか。きっと、途中で飽きてどこかにポイッとされるに違いない。

以下、内田先生のブログより。
「婚活」について。結婚について年来の持説を述べる。どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。それを涵養せねばならない。「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。何でも食える どこでも寝られる だれとでも友だちになれる 最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。それは短見というものである。よく考えて欲しい。どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。「どこでも寝られる」はずがない。世界は「危険」で満ち満ちているのである。「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。誰とでも結婚できるはずがないではないか。「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。というような話をする。

4/09/2009

灯り。


同居人と寝ている寝室。お布団が2枚敷いてあり、その周囲を所狭しと洋服が占領する。一番傾いている部屋なので、布団は知らない間に足のほうへと下がっていく。その寝室もどきな部屋の明かりが好きである。どの部屋もそんなに明るいわけではないが、この部屋は特に暗い。

輪郭がはっきりしない。そんな不明瞭な感じが好きなこともある。ちゃんと、線が見えていないと嫌なこともある。言葉を濁されてなんだか悲しくなることもあるけれど、そこに優しさを感じることもある。コンタクトもメガネもせずに生きていきたいと思いながらも、コンタクトを購入しにコンタクト屋さんに駆け込む。だって、やっぱり見えてないと不安だから。輪郭がはっきりしない、不明瞭感とは、誰とでも心地よいわけではない。時にはしっかりと引かれた線をみてその上をたどりながら慎重に歩いていくことも必要なのだ。

4/08/2009

誕生日プレゼント。


小さい頃に一度だけ木のおままごとセットを母からプレゼントされた記憶がある。けれども、それ以外の記憶は全て本である。最初は絵本であったように思う。たしか、ももちゃんシリーズであった。そのあとはぐりとぐらシリーズ、そして小学校に上がって最初のプレゼントは、ドリトル先生シリーズ。最後にもらったのはモモであったように思うが、記憶はとても曖昧なものである。本であったのは確かであるが。

TVをあまりみせてもらえなかった私の唯一の世界は本の中にあった。遊び場所も、遊び相手も全て本の中にいた。小さい頃から、皆が砂場でお城を作って楽しむように、私は本の中でいろいろなものを創造して、ひとつの世界を作り上げていたように思う。

そんな幼少期であったからか、幼少期の記憶に自信がない。現実なのか、本の中の世界なのかがわからなくなっているように思うからだ。私にとっては本の世界も現実であったから、どちらが現実であるかの線引きなど、必要ないかもしれないが。

喫茶店で一緒に働く、こんな妹がいたら素敵だなぁって思う女の子から、bookカバーをもらった。匂い袋つきのなんとも和風なカバーをもらった。プレゼントとは、相手からみた自分をよく反映していると思う。だからとても嬉しかった。本は私の一部である。その存在に気づいてくれたのである。嬉しい以外の言葉はでてこない。早速、お気に入りの作家の本をいれて、お気に入りの鞄にしまった。

そういえば、思い返すと人からのプレゼントはbookカバーやしおりが多い。人は、自分が思っているより、私のことちゃんと見ていてくれるようだ。

そんな素敵な事実にやっぱり嬉しくなる。もうすぐ友人の誕生日・・・・プレゼントってとっても難しい。ゆっくりと相手のことを思いだして考えなくては。

追伸、私のために時間を割いてくれて有難う。大事に使いますね。

4/07/2009

桜。




「なんで日本人はこんなにも桜が好きなの?」と人はよく問う。
なんでだろうか、季節を感じるからだろうか。そしてその季節が春だからだろうか。
日本は全てが4月から始まる。だからかもしれない。これが、9月であれば、ひとつの季節の始まりの通過点でしかないかもしれない。

桜は沢山のパワーを放っている気がする。あのほんのりとしたピンクは、羽衣のように皆を包んでくれる。人生は貴方が思うよりも素敵なものかもしれないのよ。そう語っているようにも思う。

数日間の晴天は皆をお花見へ導く。井の頭公園は案の定の人・人・人。皆が楽しそうである。人が笑っているのを見るのは幸せである。でも人ごみはとっても苦手である。友人といせやに逃げ込んだ。

桜は、ひとり歩いているときにふと見上げた空とともに桜を感じるのが好きである。桜は、ひとり歩いているときにひらひらと舞い降りてきた桜の花びらを手ですくいながら感じるの好きである。 桜は、静寂の中でひとり物思いにふけながらみるのが好きである。

桜からもらったエネルギーで今日も頑張らなくては。

4/06/2009

CHICAGO BLUES



普段はラジオを聴くことが多い。もしくは、サルサかシャンソンかアルゼンチンタンゴ、ノラジョーンズ。もしかしたら、BLUESがラジオで流れていたら聴いていたかもしれないけど・・・。

今までBLUESを聴いてこなかったことにも後悔。でも今このタイミングでないと、この音楽には出逢えなかっただろうし、今だからこの音楽の良さがわかるのかもしれない。今ではない時に貸してもらったら、観なかったかもしれない。そう思うと、このDVDは私に何かを伝えるために、私の所にきたのではないかと思い愛おしいものとなる。

このドキュメンタリーの中の言葉に更に強く惹かれた。
「俺みたいに相当苦労しないとBLUESは歌えない。BLUESはあんたの周りの色んなことに目を向けさせる。人が物事をどのようにみているかを考える。そして、他人の気持ちに気づく。自分の周りが同じ思いをしていることにも気づく。」

そこのシーンが特に好きである。

アラブ連盟のチャリティーバザー。




















ヨルダン、アラブ首長国連邦、バーレーン、チュニジア、アルジェリア、ジブチ、サウジアラビア、スーダン、シリア、ソマリア、イラク、オマーン、パレスチナ、カタール、コモロ、クウェート、レバノン、リビア、エジプト、モロッコ、モーリタニア、イエメン




が参加するチャリティーバザーのお知らせを、心の風邪をひいた人のもとに仕事に行ったときに、ある人から教えてもらった。彼は、私=中近東のイメージがあるようで、何か東京で中近東の催しものがあると教えてくれる。そうやって、何かをみたときに、自分を思い出してくれることって本当に嬉しい。



私が旅したのは、カタール、バーレーン、オマーン。他にも沢山興味のある国はあるのだがまだ行く機会い恵まれない。そして、今回のバザーで驚いたことは、知らない国がこんなにも興味深い国であったことだ。ジブチとモーリタニアを知らなかった。早速地図を広げた。まだ見ぬ国・・・当たり前だけれど世界は沢山の国で成り立ち、沢山の人生がある、そう、沢山の人が生きている。そう思うと感慨深いものがこみ上げてくるのだ。

皆とつながっているのだ。皆をつなげてくれているのは空。空は途切れることがない。空をみて、愛する人を感じ、親友を感じ、友人を感じ、みんなを感じ・・・晴天に恵まれたカラヤン広場を後にして、スペイン坂を降りる。満開の桜と、何十台であろうか、外(ガイ)とかかれた外交官の車を横目にみながら、沢山の国を感じた。  来年もアラブを感じに六本木まで足を運ぼう。

来月は、横浜でアフリカ博がある。楽しみがまたひとつ始まる。

ポリアンナ症候群

小さい頃、世界名作劇場を楽しみにしていた。
友人がこの本を読んでと渡してくれたのは、「しあわせなポリアンナ」

よく覚えている。不幸な境遇の少女が幸せゲームをして自分も周囲も幸せにしていき、最後には皆が幸せになるというお話である。

世間ではポリアンナ症候群と名づけて、あまりポリアンナに依存しないように忠告している。

「直面した問題の中に含まれる(微細な)良い部分だけを見て自己満足し、問題の解決にいたらないこと」「常に現状より悪い状況を想定して、そうなっていないことに満足し、上を見ようとしないこと」

そのようなことをポリアンナ症候群というらしい。

でも、生きていくひとつの術として時にはポリアンナ症候群になることも必要である。発想の転換は私の生きる上での強い味方である。

4/03/2009

ひと安心。

いつも荻窪の駅でビックイシューを購入していた。最近、いつもルミネの前に立っているおじちゃんの姿が見当たらない。なんだか寂しかった。他の駅でビックイッシューを売っている人を見かけると購入しようかなぁと思ったりもしたけれど、やっぱりいつものおじちゃんから購入したかった。体調でも崩したのだろうか?それとも、お金が貯まったのか?  なんだかとても心配であった。

でも、仕事の帰りにBUSを降りるとおじちゃんがいた!

なんだかほっとした。やっと会えて嬉しかった。早速購入した。

「おじちゃんいないから、具合でも悪くなったかと思って心配してたの。」

「週の半分は市ヶ谷に行ってるんだよ。」

あぁ・・・よかった。ひと安心。

4/02/2009

バスタオルとはさみ。

与論島にて。

久々の青空であり、空があまりにも明るいので見上げてみた。青空に飛行機のシルエットが見える。あの飛行機はどこに行くのだろうか。どんな人がどんな気持ちで乗っているのだろうか。そんなことを妄想してにやりとする。久々の青空は私を扉の向こうに誘ってくれるのである。

3月生まれの私と4月生まれの彼女。私が彼女の先輩でいる期間はたった1ヶ月である。もうすぐ、私と彼女は同級生。  ふたりで新宿のヒルトンでランチをした。小学生になるかならないかの男の子がお皿を落としてしまった。ものすごい音がした「ガチャーン」・・・・と。 その場でランチをしていた誰もが振り返ってしまった。その男の子はお皿を割ってしまった事実とその音と、皆の注目を浴びてしまったことにしばし呆然とし、その後泣き出してしまった。とても怖かったのだろう。とにかく嗚咽している彼。そこにホテルマンたちがさりげなく登場した。  最後にきたホテルマンが旬のいちごを使ったフレッシュジュースを持ってやってきた。グラスのふちにはイチゴがめいっぱいのっていた。それを見た男の子は恐るおそる目を開け泣くのを止めた。 そして笑顔でジュースを飲んでいた。  4月はじめのほのぼのした光景に、体の中に温かいものが走った。

友人とカウンターでお酒を飲んでいると、隣に座っていたふたり組の男の人が、「タバコを吸っても大丈夫ですか?」と尋ねてきた。タバコの匂いは嫌いではない。けれども、そんなことよりもわざわざ、お酒の席で見知らぬ人にそう言われたことがなんだかとても素敵な出来事として心に残っている。マッチでタバコに火をつける仕草が好きである。そういえば、隣の方たちは、マッチで火をつけていたなぁ。

友人が崩壊してしまいそうである。原因は恋愛。恋する女性は素敵であるし可愛いと思う。でもその素敵なはずの恋愛で私が一番聞きたくない言葉。聞くと辛くなる言葉。それは・・・・。彼女は泣きじゃくりながらこう言う。「なんで彼に出会ったのだろう。なんであの人と結婚したのだろう。彼に逢わなければ、あの人と上手くいっていたのに。」


過去を否定してしまったら、今の自分を否定してしまうことになる。過去がなければ、今はない。どうしてそんなに急いでしまうのだろうか。全ての結論はすぐにはでない。そんな事実も恋愛を目の前にすると霞んで見えなくなるのだろう。未来を今すぐに決めることに意味はあるのだろうか。きっとないのだろう。でも、人間は不安定な場所に留まる事ができない生き物である。それが生きるエネルギーに上手に変換される場合もある。でも、そう上手くいかないのがこの世の常。

そんなに急がなくとも、いつか未来は今になり過去になる。 

彼女は泣きじゃくりながら、「だって彼が好きなんだもん。」と繰り返す。そして、「こんなに辛いなら出会わなければよかった。」と繰り返す。

泣きじゃくりながら、雨の中傘もささずに、あの人ではなく彼のもとに向かった彼女の後ろ姿を見ながら生きる辛さをひしひしと感じる。私にはどうすることもできない。もうひとりの友人のように、「そんなに辛いならやめちゃいな。」ともいえない。私もどうすることが一番かわからないから・・・。彼女は自分でその沼から這い上がるしかない。だから、私は吸収力の高いバスタオルで彼女を包んでひたすら話を聞こうと思う。それが精一杯の彼女に対する愛情である。

心の風邪をひいた人達の調子も悪い。友人達も調子が悪い。喫茶店の常連さんも調子が悪い。こういう連鎖をスパッと断ち切るはさみを用意しなくてはなぁ。

ちょっと待っててね。どこからか調達してくるから・・・。